ギブアップ寸前?
「では、条件はこの書類の通りでお願い出来ますでしょうか?
「あの星井美希を再びイメージキャラクターにさせて頂けるばかりか、この好条件はありがたい。
是非ともサインさせて下さい」
「ありがとうございます。それではこちらにサインをお願いします」
先方である大企業の取締役が手馴れた手つきサインと捺印をしていく。
(昔ならここまでこぎつけるのに何時間掛かったことやら……)
社長室への入室を許可され、しかも返事一つで契約が成立する―――
こんな状況をプロデュース当時に想像出来ただろか。
あのめんどくさがりの美希が、ここまで本当によく頑張ってくれたものだ。
俺は社長の動作の一部始終を見守りながら、今まで歩いた道のりを思い出し感慨に耽った。
「社長さん、ありがとうなの!」
「どういたしまして。こちらこそありがとう」
「どういたしましてなの!」
「……美希。もう少し言葉遣いに気をつけなさい」
「はーい」
記憶の海を漂う旅もそこそこに、美希の大きな声で現実の大地へ連れ戻される。
しかも注意をしたところでまるで聞き入れる気配は無さそうだった。
さすが天下無敵のAランクアイドル。
1プロデューサーの注意ぐらいでは柱が揺れる気配もない。
「はっはっは! このくらいどうと言うことありませんよ。
最近はロクに感謝もしない若者が増えているのに良い子ではありませんか」
「そう言って頂けると助かります」
「ありがとうとどういたしましては、言葉のキャッチボールのキホンだもんね」
「全くもってその通り! さすがはトップアイドル。話が分かりますなぁ」
言葉のキャッチボールか。
商談中に物思いに耽るなんて、余所見をしているようなものじゃないか。
少し気が抜けて表情をしていたかもしれないし、このタイミングは丁度良かったかもしれない。
……まさか、狙ってやったのか?
それなりに長い付き合いだと自負しているが美希の深層は未だに読みきれない。
いつものんびりした雰囲気で笑っているだけで何も考えてないように見えるし……。
「あ、そうだ。ミキ、しゃちょーちゃんにお土産持ってきてたんだった」
「ほぉ、それは楽しみだ。一体どんな品物ですかな?」
「それは見てのお楽しみなの。ちょっとカバンの中調べるから待ってて。
その間プロデューサーさんは場の空気を暖めておいてね」
場の空気って……。
俺は前座の新人芸人じゃないんだぞ。
もっとも、美希にしてみればアイドルも芸人も「人を楽しませるお仕事」の一括りになっているのだろう。
美希には物を区別する、いや。
差別する価値観が無いんだ。
「あれ、どこに入れたかな。これでもないあれでもない」
「必死ですな」
「ええ、必死ですね……」
だから、ある意味「賄賂」とも言える社長へのプレゼントもファンサービスの一環でしかない。
きっと俺が賄賂だと言うと美希はこう言うんだろう。
『しゃちょーも握手会に来てくれる人もファンの一人なの。
だからしゃちょーさんだけ貰えないなんて可哀相だと思うな』
だから誰であろうと平等に、精一杯のファンサービスを行う。
本当に業界の常識に真っ向から対立するやつだよな。
そこが美希の長所でもあり、個人的に好きなところでもあるのだけど。
「うーん、確かにここに入れたはずなんだけどな。
ここそこどこどこそこの人。
それも今ではミキのハニー♪」
それにしても、一体あの小さなカバンにどれだけの荷物が入っているんだ?
男である自分には女性のカバンの収容方法は全く予想が付かない。
今度のジャケットでは遅刻寸前なのにパンパンの荷物をばら撒いて慌てるシーンでも提案してみようか。
そんなことを思いつくくらいカバンの中身はボリューム満点特盛り状態だった。
あと、人前でハニー言うな。
「それにしても本当に素直で良い子ですな」
「見守る側としては楽しさ2割、ハラハラ8割でしたけどね」
「苦楽を共にした者だからこそ言える言葉ですな。
その時の思い出、今後も忘れてはいけませんよ」
「……はい、貴重なお言葉ありがとうございます」
「どういたしまして。
おっと、美希くんの言葉でどういたしましてに対して敏感になってしまったようだ」
そう言いながらおどけてみせる社長の表情には、人生の長さを感じさせるたくさんの皺が寄っていた。
社長は0から出発して、わずか一代でここまでの企業を作り上げた人物だ。
年代も高木社長と同じくらいだし、今に至るまでに様々な苦境があったに違いない。
『あの時は苦しかったが、今となって良い思い出』と思える仕事をこれからも美希としていきたい。
そして、美希にとってもそうであって欲しい。
たった一言の言葉に、そう思わせるだけの重みが込められていた。
「あったー!! サイン入りシ〜ディ〜」
子供向け番組のお助けキャラを連想させるような掛け声と共にCDパッケージが顔を出す。
そういえば、あの番組も自分が見ていた頃からキャストが変わったんだっけ?
先ほどの社長の言葉も相成って妙に懐かしくなってしまう。
でも、美希が知っているくらいだから今も子供に夢を与え続けているのだろう。
あの頃はあの道具があったらこんなするとか色々考えたなぁ……。
「プロデューサーさん、今日は何だかずっとボーっとしてて迷走Mindなの。
ミキ、何か困ってるなら力になるよ?」
「男には男にしか分からない黄昏というものがあるのだよ。
美希くんもプロデューサー君が大事だと思うならそっとしておいてあげることだね」
「うん! ミキ、プロデューサーさんのこと大好きだから無理に聞かないことにする!」
「やはり君は良い子だね。ところでお土産というのは一体なんなのだね?」
「サイン入りシ〜ディ〜、なの!
しゃちょーの娘さんがミキのファンだって言って気がしたから持って来ちゃった」
「それはありがたい」
「一応観賞用、保存用、布教用の三枚を用意するのがジョウシキらしいから3枚持ってきたよ」
「すまないが布教用に用意してくれた一枚は私が頂いても良いかね?」
「ん〜。じゃあミキが普段聞いてるCDで良いなら4枚目用意するからちょっと待ってて」
「え、仕事に使うんじゃないのかい?」
「ミキは新しく買えば良いんだし。遠慮しない遠慮しない」
「ありがとう」
「どういたしまして!」
サイン入りシーディーなの〜。なの〜、なのぉ……
……はっ、今まで一体何を?
「あ、プロデューサーさん帰ってきた。お帰りなさいなの」
「う、うん。ただい、ま?」
よし、冷静になって考えてみよう。
……考えるまでもありません、そもそもここ数秒の記憶がありません。
「すいません、商談中にも関わらずボーっとしてしまっていたようで……」
「商談はすでに終わったようなものですし、特に気にせずとも構わないですよ。
それに、男はふと自分の足跡を確かめたがる生き物だと言いますから」
「自分は後ろを振り返るほどの道のりは歩いてはいませんよ。
今はとにかく前へ進まないと」
「頼もしい言葉ですなぁ。若い人はやはりそうでないと」
『貴方ほどの道のりは歩いてきていませんから』
という言葉は年寄り扱いに聞こえるので出かかかったところで飲み込んだ。
しかし、出来る事なら同じような年の取り方をしたいものだ。
「で、美希はなんで距離を置いて黙っているんだー?」
「サイン終わって駆け寄ろうとしたら、男と男の魂の対話をしてたから。
女のミキは割って入っちゃいけないかなーって」
珍しく大人しくしていると思ったらそんなことを考えていたのか。
魂の対話と言うほど大それたものじゃないんだけど……。
一応気を使ってくれたということだろう。
「その年でそこまで男心を理解しているとは天晴れ!
将来良いお嫁さんになるに違いない!
おっと、こういった発言はセクハラになるのだったかな?」
「ミキは全然気にしないよ。そっか〜、良いお嫁さんか〜。
あはっ、ミキとっても嬉しいかも!」
美希が春の日差しのように明るく幸せそうな表情になっていく。
きっと彼女の頭の中ではどこかの誰かさんとの新婚生活がスタートしているだろう。
……ホント、そんな羨ましい奴はどこの誰なんだか。
「さて、これ以上貴重な時間を無駄にいたすわけにも行きませんので、そろそろ失礼させて頂きます」
「もう帰るのかね。残念だがお互い忙しいのだし仕方が無いか」
「新しいCMが決まったらまた来るね」
「またそんな言葉遣いを……」
「はっはっは、また会う時を楽しみにしているよ」
一先ず美希に退室を促し、一人であらためて挨拶をすることにする。
「それでは失礼させて頂きます。この度はお騒がせして申し訳ありませんでした」
「最近は仕事漬けだったので良い息抜きにさせて頂きましたよ」
「勿体無い言葉ありがとうございます、それでは失礼いたします」
礼をした後反転しスライド式になっている扉の取っ手に手を掛ける。
扉の開閉時にぶつかってケガしないためと社長が自ら提案し、社会の部屋は全て統一されているらしい。
急いでいる時は思い切りドアを開けてしまうものだからこの提案は良いのかもしれない。
事務所に帰ったら一度提案してみようかな。
この前も駆け込んできた春香が伊織のおでこへ強烈な一撃をお見舞いして大変なことになっていたし……。
「美希くんはああ見えてとてもヤキモチ焼きだろうから、他の子のことを考えるのもほどほどにしておくんですよー」
「……え?」
いきなり冷や汗ものの言葉が飛んできたので声のした方向を思い切り振り返ってしまう。
そしてその先にいたのは、親指を立て年季を感じさせるしわに満ちた中年男性の笑顔だった。
逆光のおかげ? いや、そんなことはどうでも良い。
眩しすぎますよ、社長。本当に良い笑顔です……。
スライド式ドアがゆっくりと二人の間に壁を作るまで、蛇に睨まれた蛙のように満面の笑みの前で立ち尽くすのだった。
「遅かったね、ハニー」
「ああ、ちょっと心臓によろしく無い事があったんだ……」
「息苦しくなった? ちゃんと運動はしないとダメだよー」
「ああ、そうさせてもらうよ」
身体的な意味では無いんだけど、美希に言うことではないな。
余計ややこしくなりそうだし。
あの社長のことだから嬉々として人にしゃべらないとは思うけど……。
人にバレてしまったという事実が怖い。
今後はさらに注意していかないと。
「待ってる間に仕事帰りのサラリーマンさんにいっぱいサインせがまれちゃって腕が吊りそうになったよー。
律子がよく言ってるけんしょうえんになりそうかも」
「はは、うちにも有名なアイドルが増えてきて忙しくなってきたからなぁ」
目の前にいる星井美希を始め、抜群の歌唱力でファンを魅了して間もなくAランクと呼び声高い如月千早。
抜群の相性で着実に人気を伸ばしている萩原雪歩・菊地真ペア、水瀬伊織・高槻やよいペア。
見た目のアンバランスさと息の合ったパフォーマンスのギャップが魅力の三浦あずさ・双海亜美(真美)ペア。
如月千早とのデュオや他の765プロ所属ユニットへのゲスト参加、ソロ活動など変幻自在のパフォーマンスを披露する天海春香。
これだけのアイドルがいるのだから事務仕事が多くなるのもうなずける。
それなのに律子はアイドルと事務員を兼業しているのだから、ある意味一番すごいのかもしれない。
「みんな有名になりすぎよー!!」と愚痴を言いながらも、楽しそうに仕事をこなすCランクアイドルは765プロにしかいないだろう。
「あー、ハニー。律子、さんのこと考えてるー。
ひどいわ! 私と言うものがありながら!!」
「なんだその小芝居は」
「この前お母さんが見てた昼ドラの真似。
ゴールデンは娘が出てて恥かしいからって昼ドラばかり見てたらハマっちゃったんだって」
そういえばAランクアイドルになってからもドロドロ愛憎劇の昼ドラにだけは出演していないな。
美希に愛憎劇か。
……全然似合わない。
きっと今後もオファーが来ることはないだろう。
「でも、さっき言った台詞は割と本気だよ?」
「え……?」
『美希くんはああ見えてとてもヤキモチ焼きだろうから、他の子のことを考えるのもほどほどにしておくんですよー』
社長から頂いた言葉が頭の中をリフレインして、本能で何かを感じたのか足が棒のようになり動かなくなってしまう。
それを知ってか知らずか、美希は何歩か前に進んだ後振り返ってこちらに視線を向けてきた。
「ミキ、Relationsの歌詞に出てくる人みたいに物分かりよくないから。
私の物にならないくらいなら―――」
ミキの視線が氷柱のように冷たく鋭くなって突き刺さる。
背中に嫌な汗が走る。背筋が冷たくなる。
そういえば今日は退勤前に出来た時間で打ち合わせだったから結構な時間だったんだよな。
美希のバックで光る夕焼けの西日を見て今更のように思い出す。
なんだ美希、昼ドラも行けそうじゃないか。女の感情が完全にむき出しになってるよ。
ああ、人という人間はピンチになると冷静になるってホントのことなのかも……。
じゃなくって!
これは俗に言うデッドエンドと言うものではないですか?
そんな、俺のプロデュースは決して残虐表現のあるZ指定では無かったはずだぞ!
俺は一体どこで間違えた?
だがしかし! 今となってはそんなことを考えても仕方ない!
たまにはこういう死線を掻い潜るのも男の宿命!
さあ、ドンと来い!
「美希のものになるまでアピールしまくるの♪」
がくっ。
一人で盛り上がっていた所を気の抜けた回答で返され思わずずっこけそうになる。
「紛らわしい言い回しをするんじゃないっ」
「えへへ、名演技だったでしょ?」
「一瞬自分のプロデュースを猛省するほどにな……」
「へへっ、やーりぃ! なんてね、真クンのまねー」
いたずらをした子供のように笑う美希には先ほどのとげとげしさは無い。
こちらへ歩み寄ってくるAランクアイドルの笑顔は、夕焼けの太陽にも負けないほど眩しかった。
やっぱり、美希にはこっちの方が良いよな。
「で、美希の笑顔を守るのが俺の仕事というわけか」
「ねぇそれってプロポーズ!? そうだよね、絶対そうだよね!」
心の中からこぼれてしまった小言を美希は目ざとく拾い上げ、これまた極端な理論でラヴな方向へと誘導してしまった。
瞳は水面で乱反射する光のように輝いていて、表情はいつにも無く活き活きとしている。
……全く、こういった話をする時が一番可愛いのは罪じゃないか?
「いやいや待て待て。これはプロデューサーとしての達成目標であってだな」
「ぶー、ハニーのカイショウ無し〜」
「甲斐性無しで結構」
いつまでもそんな美希を見ていたい気持ちを抑え、またいつものようにあしらう。
しかし、いい加減これもキツくなってきたな……
最高の笑顔を見せる美希を眺める時間も増えてきたし。
そろそろ冷静と情熱のあいだから情熱のみになりそうで恐ろしい。
美希って天性の「傾国の美女」じゃないか?
昼ドラではなく歴史ドラマの表現だが、「魔性の女」よりはしっくりきそうだ。
とにかく、美希の笑顔はとんでもない破壊力なのです(言い訳)
「でも、今はそれで良いや。
16歳になるまでにもっともっとキレイになって、ビジュアルクイーンになる。
それまでハニーも我慢するんだから美希も我慢なの」
「16歳でもオッケーじゃないんだけどな……」
しかし、これ以上磨きをかけられると一人の男として耐えられるのだろうか。
むしろそんな美女に言い寄られて何もしないのは、逆に世の男性達に失礼じゃないか?
「ハニー、いきなり首をブンブン振り回してどうしたの?」
「いや、なんでもない」
美希に怪訝そうな視線を向けられるけど冷静に切り返せる状況じゃない。
そもそも、こんな考えが出てくること自体がイエローランプじゃないか。
男とプロデューサーとしては嬉しいが、法律に生きる常識人と社会人としては戦々恐々の思いだ。
「ふーん、あ、そういえば」
「まだ何か続きがあるのか?」
言葉は平静を装っていても表情はきっと玩具をねだる子供のようだろう。
今の悶々とした気持ちを別のことに逸らせるなら何でも良い。
しかし、美希が投げ込んできたボールは、目を逸らすどころか強制的に振り向かせるほどの強烈な一球だった。
「ハニー、ここまで上り詰めるまで我慢してくれてありがとう。
これからもミキはアタックを辞めないけどミキが16歳になるまで頑張ってね」
「ど、どういたしまして……」
「でも、ミキ的には別に16歳にこだわらないからいつでもギブアップオッケーだけどね♪」
「は、ははは……」
さすが天下無敵のAランクアイドル。
大胆不敵な挑戦状を叩きつけても余裕の表情だ。
「それじゃあハニー、事務所にかえろっか」
「そ、そうだな」
美希に手を取られ引っ張られるようにして歩き出す。
それは美希にギブアップしている将来の自分を暗示させる状況だった。
本当に美希は真っ直ぐで、強い。
きっとこれからも、星井美希はアイドル史に残る伝説を。
そのプロデューサーは本人の記憶にしか残らない煩悩を。
これからの未来に数々と記していくことだろう―――
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