ある日の風景 市バスの中にて


 今日もお勤めご苦労様でした。
 座席に背を預けていると、激励と皮肉を込めた女性事務員の言葉が聞こえてきたような気がした。
 オフにわざわざ仕事のために出かけているからだろうか。
 悪いことはしていないはずなのに、妙に後ろめたい気持ちになる。
 それは体のことを本気で心配してくれる彼女だからこそ言ってくれそうな言葉だったから。
 たまには忠告を聞いて休みを取るべきなんだろうか。
 ―――おっと、いけないいけない。
 バスのエンジン駆動音と振動でまどろんでいると、考えてはいけないことまで考えてしまう。
 今は考えたり休んだりする暇があるなら行動を起こさないといけない時期なんだ。
 彼女がやっと本気になって仕事と向き合ってくれるようになってくれたのだから。
 彼女は心配の種しか蒔かない生粋のトラブルメーカーだった。
 大物女優をゲームで散々に打ち負かし、ふらついて道路へ飛び出す。
 ユニットパートナーである春香と雪歩ともども、気の休まる時がなかった。
 でも、彼女は綺麗に咲く花の種を持っていた。
 一目見た時から上まで駆け上がれる子だと確信した。
 そんな彼女がやっと自分の花を咲かせるための努力をするようになったんだ。
 アイドルの種を育てる土壌であるプロデューサーは、養分をしっかり送ってやらないといけない。
 その結果痩せ細ってしまっても、花が咲いてくれればそれで―――

「あ、ハニーだ! ハニー、ハニー!」

 いいと思わせてくれないのが彼女なのである。
 彼女、星井美希にとってプロデューサーとは一生切り離せない存在。
 花が咲き、枯れ、また新たな種が芽吹くまで面倒を見る農民で無ければいけないようだ。
 その星井美希が、どうやら今停まっているのバス停で乗ってきたらしい。
 彼女は俺の姿を見つけたと見るや、一目散にこちらへ向かってきて空いていた隣の席に腰をかける。
 香水でも付けているのか、ハーブ系の仄かな香りが鼻をくすぐり少し癒された。
 っと、待て待て。
 年下の、しかも中学生の香水の香りで癒されるのは人として何か間違っていないか。
 ここは落ち着いて大人の対応をしなければ。

「あのなぁ、外ではハニーと呼ばないでくれと何度言えば分かってくれるんだ」
「それは分かってるよ。『アイドルの星井美希』にヘンな噂があるとファンのみんなが悲しむんだよね?」
「そうそう。何だ、ちゃんと分かってるじゃないか」

 小声で話す状況を見て分かってくれたのか、美希も耳打ちで返してくれる。
 単純に耳打ちというシチュエーションが良かっただけなのかもしれないけど。
 男女交際=即スキャンダルに繋がる風潮は最近では無くなってはきている。
 それでもファンの夢を潰してはいけないから『男がいる!』なんて噂はご法度なのだ。

「でも、今日は大丈夫なの。
『アイドルの星井美希』の仮面を外しているから、誰もミキだって気付かないと思うな」
「仮面って、そんな簡単に外せるわけが……?」

 と、ふとここで車内の様子に気付く。
 まだまだトップアイドルとは言えないが、765プロの星井美希と言えばそれなりに人気がある。
 本来ならサイン責めやら握手責めやらで、車内は騒然となっているはずだ。
 後ろの席に座っている男子学生のBGMは美希がソロで歌っている『Relations』だし。

「ミキね、人が人を覚える時ってトレードマークで覚えてるんだと思うの。
 この人は背が高いとか、あの人はメガネかけてたとか」
「確かにそれは言えてるな。後は他の人と関連づけて覚える方法もあるけど」
「それでミキの一番目立っている所はどこか考えて、そこをいつもと違うようにしたの」
「で、髪型が変えてみたと」

 自分で言ってから気づいたけど、今日の美希は髪型が少し違っていた。
 後ろ髪の跳ねた髪を綺麗に下ろし、頭の左右にそれぞれリボンが付けられていた。
 何より、いつも何故かはねているてっぺんのクセっ毛が無い。
 ただでさえ「金髪ロングの星井美希」のイメージが抜け切っていない昨今だ。
 茶髪ショートに変わって更に髪型が変わったら美希だと断定出来る人は少ないだろう。
 なるほど、これは確かに有効な手段かもしれない。

「正解! 即答できるなんてさすがハニーだね」
「イメージ把握は大事な仕事ですから」
「いっつも仕事仕事って冷たい反応だね。それとも照れ隠し?」

 照れ隠し、のつもりではない。
 そう思いながらも、窓から見える並木道に視線を逸らしてしまったので説得力は無かった。
 
「そういえば、女の子のさり気ない変化に気付ける男はポイント高いって友達が言ってたよ」
「それはどうも」
  
 これだけあからさまな変化とアピールでも気が付かない男は鈍感過ぎるだろうと思う。
 自分も春香のリボンの色の変化に気が付かないこともあるから人のこと言えないけど。
 ……もしかして、春香の中では俺のポイントって相当低い?
 最近はやる気になってきた美希の営業で手一杯で、春香や雪歩とは最低限のコミュニケーションしか図れていないし。

「でも、ハニーは他の子のポイントなんて気にする必要無いけどね」

 だって私がいるんだもん。
 とでも言いたいように自慢の胸を張って自慢げな態度を取る。
 ……二つの自慢をかけただけですよ?

「でも、周りの評価が高い方が美希にとっても鼻が高いじゃないか」
「ミキそういうの気にしないんだけどな。
 周りの人に何言われてもハニーに対する気持ちは変わりないし」

 臆面も無くこんなことを言われてしまうと多少恥かしくもなってしまう。
 そして,ランクCやランクDといった評価を気にしてしまう自分にとっては羨ましいとも思った。

「それにしてもえらく飾ったな」
「この前雪歩に髪の整え方を教えてもらって、
 春香に可愛いアクセサリーがあるお店をもらったの」

 話を逸らしたい一心の無理な軌道修正に対して、美希は特に気にした様子も無く答えてくれる。
 多少動揺も見えていただろうに受け流してくれる所は度量が―――と、考えたところで思いとどまった。
『春香はアイドルとしてだけでなく、普通の女の子としての一面も見てあげること』
『雪歩は普段は優しく見守り、大事な場面では常に背中を押してあげること』
『美希は常識の枠にはめて考えず、じっくりと長い目で見守ってあげること』
 三人のプロデュースを始めた当初からの行動規範は遵守しなくてはならない。
 
「ふんふん、それで全部試してみたわけだ」
「折角教えてもらったのにやらないともったいかなって」

 成果を自慢するようかのように美希が頭を近づけてくる。
『春香達のおかげなんだー』と言わんばかりに。
 昔と比べると随分と成長したものだなぁ……。
 美希は金髪の長髪で更にこのスタイルだから、アイドルとしてでなくても目立つ存在だった。
 だから、帽子を渡したりサングラスを渡したり色々手を打ってきた。
 その度に「めんどくさいし邪魔だからいらない」と一蹴されてしまうだけだったけど。
 それが今となっては人目を気にすることが出来るようになり、必要に応じて人から聞くことが出来るようになったのだ。

「これなら仕事場以外ではベッタリ出来るね、ハニー♪」
「こら、だからくっつくなって」

 前言撤回。
 人目を気にするようになったんじゃなくて、目的達成のために様々な手段を使うようになっただけだ。
 それはそれで、ある意味成長とは呼べるのだけど……。

「うふふ、とっても仲の良さそうなカップルですね」
「い、いえいえそんなことは決して」
「ハニーはミキのハニーだから当然なの」

 突然の不意打ちに、俺は慌てて取り繕い、美希は至っていつも通りに答える。
 どうやら美希と話している間に次のバス停に到着したようだ。
 このバス停はちょうど駅前にあり、乗ってくる客は多いらしい。
 車内には次々と乗客が入ってきており、この女性もさきほど乗ってきたようだ。
 黒のスーツとナチュラルメイクのビジネスライクな服装。
 そんな見た目に反して、持っているカバンはファンシーだった。
 一体どんな仕事をしているのか想像できない。
 それでも、活力と女らしさを感じさせる綺麗な女性だった。
 社会人ではあるだろうから、(実年齢が不明な)小鳥さんと同じ年代だろう。
 
「男の照れ隠しは可愛いですねぇ」

 やっぱり照れ隠しだったんだー、と漏らす隣の乗客から目線を逸らすようにして前を見る。
 その先で、さっきまで『relations』を聞いていた男子学生は手すりに手を掛けて立っていた。
 確認してみると後ろの乗客はお年寄りの女性に代わっている。
 どうやら席を譲ってあげたらしい。
 そのことが何だか少し誇らしくなり、少し恥かしかった。

「あの、良かったら席どうですか?」
「仲睦まじく席に座っている所を邪魔するほど野暮なことはしませんよ」

 それに、と車内を見渡しながら言葉を続けていく。

「地元民はみんな知ってるんですよ。この時間帯のバスは下校中の学生が多いって。
 だから、混雑を避けたい人はこのバスには乗らないんです」

 それでも乗ってくる人は本当に急いでいる人か、あえて乗ろうとする負けず嫌いです。
 と、女性は自分を指差しながら言葉を付け足した。

「それで事情を知らない余所者が乗っちゃうと大変なことになると」
「学生達も節度のある子が多いですから、混雑に耐えられるかが問題なだけですけどね」

 それは後ろの席に座っている人物からも読み取れる。
 基本的に乗り込んできた学生は周囲への迷惑を配慮して大きな声でしゃべったりしていない。
 時々男子学生がこちら(多分美希とこの女性)をチラチラ見ることがあるぐらいのものだ。
 これはまあ、男にはよく分かる気持ちだからしょうがない。

「ねえ、そこの人。初対面なのにミキのハニーと仲良しなんだね」

 美希が不機嫌そうに目の前の女性に声を掛ける。
 どうやら会話に入れなかったことが気に召さなかったらしい。

「ちょっと世間話してただけじゃないか」
「普段は余計なことは喋らないし喋らせない人なのにねー」

 うっかり発言と世間話は違う。
 そんなことを言っても聞く耳を持たないことは持たないだろう。
 一体どう言ったら良いものかと思案していると、様子を窺っていた女性から助け舟が出された。

「世間話と言えば、最近は星井美希ちゃんっていうアイドルの評判が良いよねー」
「……へ? う、うん。そうだよね!」

 とっさの機転で美希も分かりそうな芸能ネタを取り出したのだろうか。
 彼女の振った話題は狙い済ましたような精度で美希のご機嫌を持ちなおさせた。
 というか他人の評判なんて気にしないんじゃなかったのか。

「始めから抜群のビジュアルだったけど、最近になって中身も伴ってきた感じ」
「きっと大事な人のおかげなの」
「人に影響を与えられるって相当なパワーが無いと出来ないものね。
 きっとその人は素晴らしい人なんだと思うわ」

 直接自分のことだと言われていないけど、それは自分のことであって。
 人から人に渡って誇張された噂を聞いた時のような、背中がむずむずするような感じがした。

「でも、そこまで見てくれているファンがいるって嬉しいって思うな」
「まるで本人のコメントみたいなリアリティね」
「だってミキはミキだし」
「あなたもミキちゃんなんだ。偶然ってすごいわねぇ。
 私も同じ名前のアイドルになりきっちゃおうかなぁ」
「ミキはそんなつもりで言ってるんじゃないけど。でも、その方が楽しいならそれで良いと思うな」
「うんうん、楽しいならそれが一番」

 今度は俺が会話に入れなくなった。
 それだけ女性同士の会話は弾んでいて、竜巻のような風が二人を覆っているかのような感じだった。
 まあ、美希も最低限の配慮を考えている(ような)言動を行っているし、楽しそうならそれで良いか。

「私と同じ名前のアイドル……やっぱり天海春香ちゃんかなぁ」
「お姉さんの名前もハルカって言うんだ」
「残念ながら漢字まで同じじゃないんだけどね」
「これで雪歩がいればカンペキだね。ハニー、雪歩やってみる?」
「俺が雪歩だなんてダメダメだろ……」
「あはっ、ちょっとだけ似てるかも」

 自分のプロデューサーに自分の物真似をされたとなるとどうなることやら。
 ショックで穴掘って埋まるどころの話ではない気がする。
 それにしても、春香と同じ名前の女性と出会えるなんて偶然というのは面白い。
 この女性が春香ぐらいだった頃はやっぱり春香っぽかったのだろうか。
 数年後の春香もこんな感じの女性になっているのだろうか。
 名前が同じだけで親近感を持ってしまった。

「春香の名前がパッと出てくるってすごいね。春香ってパッとしないのに」
「こらこら、星井美希ちゃんになりきってるならパートナーをけなさないの」
「普段からこんな感じだと思うし、春香はデビューした時から好きだし。
 ミキはそれで良いと思うな」
「ミキちゃんもデビュー当時からのファンなんだ。仲間が出来るのは嬉しいなぁ」

 これはハルカさんがデビュー当時からのファンということなんだろうか。
 持ち前の明るさや一生懸命なところは、春香の魅力はスクリーン越しでは伝わりにくい。
 そのためデビュー当初は常に「普通」と印象が付きまとい、目に留めてもらうことが少なかった。
 だからそんなに前から春香のことを応援してくれていることは素直に嬉しかった。
 プロデューサーとして感謝の気持ちを伝えたい気持ちが出てきて、人ごみの中にいることを歯がゆく感じた。

「お姉さんも中々通なチョイスをしてくれたねー。春香に代わってハルカにお礼するの」

 美希も同じことを思っていたのだろう。
 言葉にしにくい自分の代わりにハルカさんへ感謝を述べてくれた。

「はるかはるかって並べられるとちょっとむずがゆいわね。
 でも、名前が一緒だったこともあるけど、何だか妙に親近感が沸いちゃうのよねぇ」

 それから彼女は昔話を交えながら春香と共感出来る部分を話し始めた。
 歌が大好きで学生時代は合唱部に所属していたこと。
 住所までは分からないけど地方出身らしいこと。
 地元にいる時は公園などでよく歌っていたこと。
 それらの話を聞く限りでは、当時の彼女は正に春香そっくりの少女だったのだろうと推測できた。

「今でも『アイドルになれば良かったのに』って言われるくらい歌は上手いんだから」
「春香が一生懸命練習して歌が上手くなるとハルカになれるぐらい?」

 どっちがどっちか分からないよー。どっちのことだろうねー。あはは。
 二人が同時に笑いあう。
 能天気に、楽しそうに笑う二人の声は、普通ならうるさいと注意されているかもしれない。
 しかし、誰も咎めようとする人はいなかった。
 都会は冷たいと言われることが多いが、このバスの中はとても温かかった。

「でも、それだけ上手くて歌が好きならアイドルを目指せば良かったのに」
「うーん……」

 彼女は自分の過去を紐解くように目を閉じて考え始める。
 自分のように『社長に誘われて興味を持った』という受動的な理由ではない。
 何の仕事をしているかは分からないが、考えに考えて今の職業を選んだのだろう。

「自分の歌で笑顔になってくれる子がいたら良いなって思ったの」
「アイドルとは違うんだ」
「そうね……。
 家族で上京する直前、みんなと別れるのが悲しくて半分ヤケになりながら思い切り歌ってたの。
 そしたら、たまたまそれを聞いてた女の子が言ったのよ。
『お姉ちゃんすごーい! わたしもお姉ちゃんみたいにおうたの上手なおねえさんになりたい!』って」

 その子の笑顔と瞳、本当に輝いていたなぁ。
 目を細めながら、彼女は大事なガラス細工を扱う時のように優しい表情でつぶやく。

「すっかり気をよくした私は『歌が上手くなりたいなら、目指せアイドルよ!』
 なんていい加減なことを言っちゃったのよね」

 ヤケクソで歌っていた歌を聞かれていた恥かしさもあったのかもね。
 その場の勢いに任せて景気の良い言葉を言った様子が窺えた。

「でも、あの子は本気にして『私も頑張るからお姉ちゃんも頑張ってね!』って言いながら走ってどこか行っちゃったわ。
 その時彼女のキラキラ輝く瞳を見て思っちゃったの。子供の笑顔はアイドルみたいだって」

 そして、自分の歌で子供から「アイドル」を引き出せたなら、それは素晴らしいことでは無いか。
 ちょうど今後の進路にも悩んでいた彼女は、自分が進むべき道も決めた瞬間だったらしい。
 765プロで働くことで夢を見つけたとは自分とは違う。
 夢に向けて前進し、叶え、今も夢を見続けている最中なんだ。
 ―――活き活きとして見えるには相応の理由があったのだ。

「ハルカとその子にとって、お互いがアイドルだったんだね」
「―――うん、そうかもね」

 美希は終始真剣な表情で耳を傾けていたが、ふと羨ましそうな表情を見せた。
 自分はまだ、ファンのみんなから「アイドル」を引き出せていない。
 本当に活き活きとして笑顔を自分の力で生み出せていない。
 そんなことを考えているのだろう。

「あ、私次のバス停で降りるからここで」
「もう少しお話したかったけど仕方ないね。また会おうねー」
「そうね、今度あなたたちのライブに行ってみようかしら。星井美希ちゃん」
「え……」

 驚いたのは美希だけだった。
 ……やっぱり気付いていましたか。

「本物には見た目の変化じゃ隠せない『オーラ』がありますから」
「―――今後はその点も考慮します」
「それじゃあ頑張ってねミキちゃん。あと出来れば春香ちゃんにもよろしくねー」

 それだけ言うと、彼女のために道が開けられたように空いてきていたバスから悠然と折りる。
 そして、呆然と見つめる美希が発車の合図に気付く頃には、颯爽と夕暮れ間近の町へと消えていった。

「ハニー、大人のオンナってすごいね」
「まったくもってその通り」
「ミキも頑張ろうっと」

 美希が『大人のオンナ』をどのように捉えたかは分からない。
 でも、今日のこの出会いは、美希にとって運命的な出会いになったようだった。




「あれ、プロデューサーさん今日はオフだったんじゃないんですか?」

 やむを得ぬ都合で765プロに帰ってきた所を春香に迎え入れられた。
 
「本当はすぐに帰るつもりだったんだけどな……」
「ハニーごめんなさいなの」

 自分でバスに乗ってきたくらいだからバスの降り方は覚えたものだと思っていたのに……。
 春香と雪歩と自主練習をして、夜は雪歩の家でお泊まり。
 ユニット結成当時からのイベントで、765プロ職員も全員知っていることだった。
 美希はそのために765プロへ向かう途中だった。
 今日がその日だとは知らなかったが、少し前に一応バスの乗り方は教えたし大丈夫だろう。
 そう考えていたことが敗因だった。
 いつも一緒に降りる男の子がいなーい!
 と叫びだしたのはハルカさんと別れた後の、俺もそろそろ降りようかと思った頃だった。
 ちなみにそれは誰かと特徴を聞いてみたら例の「relations」の少年だった。
 自分が好きなアイドルから熱い視線が注がれていると知ったら少年はどうするだろう。
 きっと心臓が飛び跳ねるほど喜ぶだろう。
 本人が知らないのは幸か不幸か……

「今度は見失わないよう背中に張り付いてやる〜」
「それはやめておくんだ美希」
「そ、そうだよ美希。女から男にしてもチカンはチカンなんだから」
「じゃあじっと見つめておくことにしようかな」

 少年を名誉のショック死から守るため断固阻止すべき事項だった。
 そして春香さん。
 ここで痴漢という言葉が出てくるのはアイドルとしていかがなものだろうか。

「み、みみ美希ちゃん!
 さっきチカンとか聞こえたけど遅かった理由って誰かにチカンされちゃってたんですか!?」
「あ、雪歩。遅れてごめんなのー。でもチカンとかなかったから安心していいよ」
「よ、良かったぁ……」

 春香の不穏な言葉を聞きつけ、心配して走りこんできて、安心してその場にへたり込んでしまう。
 その時間僅か1分未満。
 心配性で優しい雪歩らしい、いつも人のことを考えている感情の表れた行動だった。 

「心配してくれてありがとうなの」
「ううん、何も無かったならそれでいいから」
「心配しすぎて普段では考えられない独創的なステップを踏むくらい心配してたのに?」

 さてこの話はこれでおしまい。
 と言ったところで春香から新たな一石が投じられた。

「は、春香ちゃんだって音程外してた!」
「そ、それはレッスン中に雪歩が大げさなこと言うからだよ〜!」

 投じられたものに驚いて思わず石を投げ返してしまう雪歩。
 春香は興奮すると周りが見えなくなるし、雪歩も意外と頑固なところがあるからなぁ。
 こうなってはもう収集はつかない。

「うんうん、ミキは二人の気持ちよぉ〜く分かったから。
 落ち着いておにぎりでも食べるの」
『美希は黙ってて!』
「当事者なのにひどいって思うな〜」

 そこへ美希が割って入ろうとするが、2人に一喝されるとあっさり諦めてしまった。
 その後もしばらくわいわいがやがや。
 結局争点が分からなくなった二人が次第に仲直りしたり、美希はその間おにぎりを食べていた。
 765プロは騒がしいけど今日も平和だった。

「あ、そうだ。今日バスで会ったお姉さんが春香によろしくって言ってたよ」
「お姉さん? 私こっちに年上の知り合いなんていないけど」

 ひとまず落ち着いたところで美希がバスで出会った女性の話をしはじめた。

「もしかしたら出身地が春香ちゃんと同じだったりするんじゃないかな?」
「そういえばそんなこと言ってたかも」
「そんな偶然もあるんだねー。私も会ってみたかったなぁ」

 同郷の人が都会で頑張っている。
 それを聞いた春香は何だか嬉しそうだった。

「そのお姉さんは、向こうは田舎で公園も広かったから思い切り歌ってても怒られなかったって言ってたよ」
「田舎じゃないから! 自然と都会がバランスよく調和した理想の町ですから!」
「は、春香ちゃん落ち着いて……」

 ちなみにあの女性は田舎とは言っていない。

「あれ? 私の同郷で、公園で歌を歌っていたお姉さん……?」
「その時一人の女の子にアイドルになったらって勧めたんだって」
「その子が今アイドルになってたらとてもロマンチックだね」
「ミキも運命の出会いって素敵だって思うな」

 春香が何やら考え込んでいる中で、雪歩と美希は瞳を閉じて自分の世界へ入り込んでしまった。
 さて、そろそろ女子三人の団欒を邪魔しないために帰るとしようか―――

「ああああああああああーーーー!!!」
「!?」
「ひゃぁうっ!?」

 なっ!?
 び、びっくりしたぁ……
 事故現場に遭遇してしまったような絶叫にすくんでしまった。


「その人何処行った!?」
「ち、近くのバス停で降りたけど」
「そっか、ありがとう!」

 帰りがけに大きな声がしたから戻ってきたけど、春香がものすごい形相で美希に詰め寄っていた。
 一体春香は何を思い出したのだろう。

「は、春香ちゃん。今から行ってもいないと思うから今日のところはやめておいた方が」
「その内ライブに来てくれるだろうしその時で良いと思うな」
「二人で止めても無駄! 私は行かなければならないの!」
「春香ちゃんちょっとカッコイイかも……」
「そこまでしなくてもその内会えるのになぁ」
「待っててねお姉さん。今、会いに行きます!」

 その後、春香が運命の再会を果たしたどうかはまた別のお話。
 765プロはいつも騒がしいけど、やっぱり今日も騒がしかった。




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