半熟な気持ち


 今朝は絶好調だった。
 プロデューサーによる冗談交じりの挨拶で春香が大笑いして、
 社長が伝えてくれる流行情報でボーカル流行が来たことを知った私の気持ちが昂ぶって。
 今日は良い仕事をやろうと思える最高の滑り出しだった。

「それじゃあ朝のミーティングを始めようか」
「はい、よろしくお願いします」
「今日も頑張りましょうプロデューサーさん」

 間仕切りで区切られた空間に椅子と角テーブルが置かれているだけの、応接間と呼べなくもないスペースでのミーティング。
 そこへ招き入れたあと、プロデューサーは私達に隣り合わせの席になるよう指示をした。
 そして私達の着席を待ってから向かい合わせの席に座る。
 髭の剃り残しも見当たらず清潔感溢れる容姿とレディーファーストを重んじる紳士的な彼が私達のプロデューサーだ。

「千早、俺の顔に何か付いてるか?」

 気付かない内に顔を眺めていたらしい。
 プロデューサーに指摘されて慌てて目線を逸らす。

「い、いえ。何でもありません」

 それなら良いのだけどと、彼は話を切ってミーティングの準備を始める。
 気付かなかったのか、気付かないフリをしてくれたのか。
 どんな時でも微笑んでいるその表情からは読み取れない。

「さて、今週の活動内容は覚えているかな?」
「前半はレッスンをこなして後半は営業に出掛けるんですよね」
「折角ボーカル流行が来たことですし、是非ボイスレッスンを行って一気にトップアイドルへ登りつめることが最善の……」

 さっきの照れ隠しの意味もあったように思う。
 次々とまくし立てていく言葉が先走った行動だと気付いたのは話し始めてからしばらくした後。
 恥ずかしさで口にフタをするように、言葉が尻すぼみになって消えていく。
 そんな私に対し、プロデューサーは顔をしかめることなく普段通りの笑顔のまま。
 春香はばつが悪そうに目線をそらした。

「千早、君にとって絶好のタイミングが訪れたことは分かってるつもりだからちゃんと話し合っていこうな」
「は、はい。すみません」

 真っ向から否定したり慰められるよりは気が楽だと理解されているからこその行動。
 そんな彼らの気遣いに恥ずかしさと同時にこそばがゆさを覚えた。

「意気込んでる千早ちゃんの気持ちは分かるけど、ひとまず飲み物でも飲んで一息入れましょうか」

 気まずくなった所に音無さんが絶好のタイミングで入ってきてくれた。
 両手でトレーを持っていてその上には三つのマグカップが乗せられていてその一つからは湯気が立っている。
 プロデューサーが資料の入ったクリアケースを端に寄せて確保する。
 音無さんはありがとうございますと一言告げた後、その空いたスペースにトレーを置いた。
 
「はい、プロデューサーさんはブラックコーヒーです」
「ありがとうございます、音無さん」

 落としても割れないから、それだけの理由で選んだステンレスのマグカップをプロデューサーは音無さんから受け取る。
 底が少しへこんで不恰好になっているそれは、彼の読みどおり何度か宙を舞ったからだ。
 主に、春香がお茶汲みをした時に。
 障害物などは注意して避けられるのに、その後に何も無い所で躓いてしまうのは何故なんだろう。

「春香ちゃんと千早ちゃんには絞りたての果汁を使ったフルーツオレね」
「うわーおいしそー」
「一体どこから取り寄せたんですか?」
「うふふ、それはですね〜」

 私の質問に対し音無さんが自慢げに話し始める。
 彼女の話によると、事務所移転の記念にたるき屋の皆さんからフルーツの盛り合わせを贈呈されたのだそうだ。 
 しかし、病院へのお見舞いサイズだったのでスタッフ全員で食べるには物足りない。
 それで何とかみんなで頂ける方法は無いかと考えた結果、このフルーツオレが生まれたそうだ。

「へー、結局あれはこれになったんですか」
「これならスタッフ全員が飲んでも1杯分ずつくらいは回るかなと思いまして。
 結構高いものを買って下さったそうなので、本当なら皆さんにもそのまま頂いてもらいたかったところですが」
「確かに美味しかったですもんね」

 音無さん達の話で興味が強くなり一口だけ口にしてみる。
 果汁だけで作られたフルーツオレは、それぞれの果物が自然な甘さを口の中で奏でて壮大なオーケストラを生み出している。
 そして、後からやってくる来るミルクが静かな旋律を奏でて酸味や甘味をさっと洗い流してくれる。

「うん、美味しいですね」
「良かった〜」

 一言で言えば美味しいというわけだ。
 ……グルメ番組で同伴したレポーターの表現があまりに上手かったので真似しようとしたけどやっぱり難しかった。
 もちろん口に出すことなど恥ずかし過ぎるので感想も淡々としたものだ。

「私がお菓子を作った時もアドバイスをくれるんですけど毎回的確なんですよー」
「そうなの? それじゃあ今度から私もお願いしてみようかなー」
「え? それは別に構いませんが」

 特にグルメ食材と言う物を食べてこなかったからそこまで舌が肥えているとは思えない。
 今まで食べてきたものと言えばブロック栄養食と外食チェーン店の安定したクオリティの料理ばかりだったし。
 だから、数々の高級食材を口にしてきたであろう彼女に批評してもらう方が良さそうな気がする。

「そういった事は水瀬さんの方が適任では」
「伊織は味オンチだからダメ」
「え? そうなの?」

 素直に気持ちを伝えてみると横から即座に春香が否定してくる。
 これは意外だった。
 でも特定のものばかり食べていると偏食家になるらしいしそういうことなのだろうか。

「味オンチ、なんだもんっ」
「伊織ちゃんのレビューは可になればお店を開けるレベルだから、ねぇ」

 ああ、なるほど。小鳥さんの言葉で納得した。
 良いものばかりを食べてきたから基準が高すぎて散々にこきおろされてしまったのね。
 彼女も遠慮がない性格だし評論家としては優秀でもアドバイザーとしては向かないのだろう。
 まあ、私も歌に関しては人のことを言えないけれど。
 水瀬さんとこだわりがあるジャンルが被っていたらどうやっていたことやら。
 昼夜を通して音楽論を語り合える同志になっていたか、徹底的に相手を否定して糾弾する怨敵になっていたか。
 前者なら嬉しい限りだが、後者なら私に私を説得しろと言われるようなものだ。
 うん、絶対やりたくない。

「うう、何もあそこまで言うことないのにー!
 何よ、ちょっと上手くいった調理実習レベルねって!」
「まあまあ押さえて春香ちゃん。きっと伊織ちゃんなりの激励だったのよ」
「そもそも成功した調理実習って、案外レベルが高いような気がするけれど」

 クラスの同級生が作ったオムレツのことを思い出す。
 私の高校に両親の飲食店を手伝っている子がいて、たまたま同じ班になった時は班員全員がその子をアテにしていた。
 積極的に人と関ろうとしなかった私も多分に漏れず、調理は彼女に任せきりだった。
 それでも何かやるべきだとは思っていたので一人で黙々と洗い物をしていたけれど、
 次々と使い終わった調理器具が流し台に送られてきて忙しなかったことを覚えている。
 つまり、それだけ手際が良かったということだ。
 そんな彼女が作ってくれたオムレツは綺麗な楕円形で中はふわふわ完熟の、
 それこそ喫茶店のマスターから出されたら代金を払ってしまいたくなるほどの出来だった。
 そういえば彼女のことは名前も知らなかったな。
 昔は人付き合いなんて煩わしいと思っていたけれど、機会があったら話を聞いてみよう。

「そういう問題じゃないんだよ千早ちゃん!」
「じゃあどういう問題なの?」
「言葉の選び方が素直に褒められてる感じがしないの」

 イマイチピンと来なかったので歌に置き換えて考えてみる。
 実際には上手いのに微妙に褒められてる気がしない表現方法と言ったら……

「ちょっと上手くいったのど自慢レベルって言われるようなものといったところ?」
「そうそうそんな感じなんだよ!」

 春香がぶんぶんと首を縦に振り、その様子からバブルヘッド人形を連想させる。
 スポーツ界の国民的スターや政財界の大物をモチーフにされるそれは、Aランクアイドルのものも作られる。
 まだCランクの私達だけれど、直に盛大に首を振る春香の人形を目にすることになる自信はある。
 だから、今度は春香に鎮まってもらわないとね。
 春香自身のためにも、私のためにも。
 そして、女子同士の話題には入りづらいと匙を投げつつあるプロデューサーのためにも。

「まあ、別にそこまで気にする必要ないじゃない」
「た、確かにそうだけどぉ」
「周りの評価ばかり気にしてると、自分の作りたいものを見失うわよ」
「え、うん。そうだね。
 ってあれ? その言葉どこかで聞いたことあるような」

 歌に対して過敏で欠点を挙げられる度にそれを潰そうと躍起になっていた低ランクの私。
『周りの評価ばかり気にしてちゃ、いつか自分の歌いたいものを見失うよ』
 当時の私にこう言ってくれた春香を、今はこうして私が諭している。
 それがちょっと可笑しいと思うと同時に、あれは自分自身にも言い聞かせるための言葉だったのだろうと初めて気付いた。
 両親の問題にも決着が付き、私にも周囲を見渡す余裕が生まれたのかもしれない。 

「今の千早、見惚れるくらい良い表情してたなぁ」
「なっ……!?」

 それは表情にも表れていたようで、口を挟まなかったプロデューサーがポツリと言葉を漏らした。
 思わぬ横槍は短い言葉なのに10人の話を同時に聞いているような情報量に思えて処理が追いつかない。
 見惚れる、惚れる、プロデューサーは私のことがす、す……

「うわー千早ちゃんが口をパクパクさせて言葉にならない思いをブツブツと!」
「これは非常事態よ! うふふ、みなぎってきたわ!」
「小鳥さん非常事態なのか面白がるかどちらかにしてください。
 千早、こんなこと不意打ちで言ったら動揺するって分かったのについからかってしまった。
 ごめん、怒ってるんだろ?」

 お、怒ってなんか。

「怒ってなんかいませんよ!?」
「うおっ」

 見当違いの謝罪、近づく顔、温かな吐息。
 全てごちゃ混ぜになって頭に叩き込まれ、熱暴走を起こして一瞬で爆発した。
 鍛えぬいた体によってお腹の底から搾り出された言葉は、別の階にも響こうかと言うほどの大きな声になってしまった。
 結局、今日のミーティングは私が足を引っ張ることになったのか。
 二度目の失敗は流石に堪える。
 
「すいません、急に大声なんて出してしまって」
「それは別に良いんだけど、本当に怒ってないよな?」
「はい、だから」
「だから?」
「気にしないで下さい」

 さっきの言葉は否定しないで下さい。
 とは言えず心の中に閉まってしまう。
 あんな大声で叫んでおいて今更そんなことを言えるはずが無かった。

「気にするなって言うならミーティングの続きにしようか」
「分かりました」
「はーい」
「小鳥さん、飲み物ありがとうございました」
「いえいえ、仕事前に良いもの見させてもらいましたから」

 これで今日のもうそ、じゃなくて仕事にも精が出ますよ! と意味深な発言を残し音無さんが去っていく。
 その足取りは非常に軽やかでトレーを振り回してスキップでもやりかねないほど上機嫌のようだった。

「というわけで今日の仕事だけど、俺の独断で新曲のジャケット撮影にしてしまおうと思う」
「ええっ!? さっき千早ちゃんが提案したボイトレの意見とか私の意見とかスルーですか!?」

 プロデューサーの提案に春香が素っ頓狂な声を上げる。
 これで五分五分だ、などと思ってしまう私はちょっと意地悪なのかもしれない。
 でも、私の方が彼に迷惑をかけていると思いたくなかったから仕方ないと思いたい。

「じゃあ春香は何かあるか?」
「え、えーとそのー」
「私は構いません。いえ、やらせて下さい」
「わ、私だってやりますよ。ジャケット撮影どんとこいです!」
「そうか、今日の仕事は楽しみだな」

 その言葉に『見惚れる表情』を否定しないと暗に示されたような気がして胸の奥がきゅっと締め付けられる。
 プロデューサーの言うとおり、今日は良い仕事が出来るかもしれない。
 いや、良い仕事にしなければならない。
 そう決意させる朝の一幕だった。





「お疲れ様でしたー」
「ありがとうございました」
「ご苦労さん、良い仕事させてもらったよ」

 スタジオの皆さんが仕事上がりの挨拶を交わし、それぞれ片付けの準備に入っていく。
 その表情は充実感に満ち溢れていて、私も釣られて嬉しくなる。

「二人ともお疲れ、一発オッケーが出るとは恐れ入ったよ」

 着替え終わってから春香とロビーに向かうとプロデューサーが上機嫌な表情で出迎えてくれた。
 仕草も若干大げさになっており、あのショットが良かったと写真を撮るポーズまでしてみせる。
 ある意味私以上のポーカーフェイスである彼が、私達の仕事で喜んでくれていることは担当アイドルとしては至上の喜びだ。

「今日の千早ちゃんはとっても綺麗だったから私も負けてられないって頑張っちゃいました」
「ふふ、褒めても何も出ないわよ」

 でも言われて悪い気はしない。
 これまで歌の仕事はリテイク無しでこなせる事も多かったが、それ以外の仕事では失敗も多かった。
 特に写真撮影は苦手だったのだけれど、今日はぎこちなさなどまるでなく自然な表情を出すことが出来た。
 CDのタイトル通り、魔法をかけられてしまったかのようだった。

「今日でアイドル・如月千早が更なる進歩を果たしたな」

 誰にかけられたのかは言わずもがな。

「私も、私も進歩しましたよ」
「春香は以前から可愛い表情が出来てたから進歩したとは言えないなぁ」
「もーそこは素直に褒めてくださいよー」

 でも、可愛いって言ってもらっちゃった。
 プロデューサーには聞こえない程度の声で呟き春香は頬を染める。
 その仕草は同じ女子の私でも可愛く思えて、自然に女の子らしさ出せるところが彼女の魅力なのだと実感する。

「今日は良いプロデュースが出来て気持ちが良いぞ。
 二人のお陰で時間に余裕もあるし何か食べて帰るか!」
「あ、だったら私たるき屋さんに行ってみたいなー」
「え、俺は構わないけどあそこ居酒屋だぞ?」
「一度そういうお店に入ってみたかったんですよー」
「フルーツの盛り合わせのお礼にも伺いたいですし丁度良いのでは無いかと」

 本当は春香と同じような理由なのだけれど、素直に口に出せないのでもっともらしい理由を付けて春香を援護する。

「それもそうだな。ここからなら割と近いし挨拶ついでに何か食べて行こうか」

 そう言ってスタジオを出てロケバスに乗り込む。
 あの頃の私達はマイナーアイドルだったから電車移動でも声を掛けられることなんて無かったな。
 かつての事務所の下にあるお店に顔を出すとなると昔のことを思い出す。
 道中の車内ではプロデューサーが居酒屋のいろはを春香に説明していた。
 春香は嬉々として様々な質問を投げかけていたが、プロデューサーは時々返答に困っていたようで考え込むことも多かった。
 まだまだ若いし、一緒に飲める同僚も社長や小鳥さんくらいしかいないことだしあまり機会がないのかもしれない。

「すまない、言うほど俺も詳しくなかったみたいだ」

 懐かしの雑居ビルに到着し、ロケバスから降りたプロデューサーは頭をかきながら照れくさそうにそう言った。
 男の自信、ここに消滅す。
 こんなことを考えているようで、相変わらず表情は読めないけれど少し落ち込んでいるような気がした。

「気にしないで下さい、居酒屋に詳しくなくても私達にとっては立派なプロデューサーですから」
「そうですよプロデューサーさんっ」

 だから、お世辞とも取れる本当の気持ちを彼に伝えることにした。
 プロデューサーは見る見る元気に、とはいかないまでも少し気分が晴れたように見えた。

「また話す機会があるかは分からないけど次はもっと詳しくなっておくよ」
「別にそこまでしなくても良いですよ」

 だって、追いつけなくなるから。
 春香がポツリと漏らした一言に私も全面的に同意する。
 あれ、私なんでこんなことを。
 でも、何故なのかは自分でも理解できなかった。

「まぁ、ここで突っ立ってても仕方ないし店に入ってしまおうか」
「そうしましょう」
「ふわふわオムレツがたっのしみだな〜」

 確かこのお店のお勧めメニューの一つだったわね。
 プロデューサーの話を思い出しつつ店内に入る。
 店内にはいくつかの座敷とカウンター席があり、カウンターには様々な銘柄のお酒が並んでいる。
 流れるBGMは古き良き名曲達が流れており落ち着いた雰囲気を作り出している。
 これで酒でも入るものなら普段は話せないようなことを色々と飛び出してくるのだろう。
 それは一般的、の基準は分からないけどドラマのセットで見たことがある『よくある居酒屋』の風景だった。

「いらっしゃいませ〜。お久しぶりです〜」
「お久しぶりです、お祝い品の節はどうも」
「いえいえ。栄転おめでとうございます」
「若い子がいるんで出来たらたばこを吸わない席が良いんですけど」
「かしこまりました。それではお席の方へご案内させて頂きますね」

 通されたのは入ってすぐの所にある座敷で、立ち上がらないと隣が分からない高さの間仕切りで囲まれていた。
 入ってすぐの席と奥の席で分煙がされているようで、匂いや煙は感じられない。
 ここに来る方はかつて店の上にアイドル事務所があったことを知っているらしく、私達を見てもそれほど驚きはしなかった。
 かと言ってランチタイムとは言え居酒屋にアイドルがいると騒がれるわけにはいかないし、煙が遮断されていなければ咽を痛める原因にもなる。
 そういったことから、店側の配慮はとてもありがたかった。

「とりあえず二人は座敷の奥に座っておいて」

 プロデューサーの指示通り、間仕切りで完全に死角となる場所に二人して着席する。
 掘りごたつの席が珍しいのか、春香は足をブラブラと揺らして遊んでいる。
 プロデューサーは店員の方と何かを話すためにどこかへ行ってしまっていまだに着席はしていない。

「ねぇねぇ千早ちゃん」
「どうしたの?」

 春香が遊びを中断して思い出したように耳元で囁くようにして話しかけてくる。
 耳たぶに息が掛かって少しくすぐったかったけど内容は聞き取れたので私も小声で応える。

「さっきの人の声、誰かに似てない?」
「似てるというか、水瀬さんにそっくりだと思うけれど」

 音無さんの噂に出ていたけれど本当にそっくりね。
 さながら常に営業モードの水瀬さんと言ったところかな。

「じゃあ、あの人が小川さんなんだね。お礼言うタイミング逃しちゃったなぁ」
「お品書きを渡しにまた来るわよ」

 座敷は間仕切りで半個室状態になっているため、外からこちらを窺えない代わりにこちらからも外の様子は分からない。
 頼りになるのは音の情報だけで、『鶏鍋いちー!』とオーダーを宣言する水瀬さんの声が近づいてくるのを待つしかない。

「鶏鍋入りましたー!」

 そうして耳を傾けていると、オーダーを宣言する人の中に聞いたことがある声が混じっていることに気が付いた。
 歌の練習の副産物で音を聞き分ける能力も身に付いている耳で。
 この声は、確か。

「お待たせ。いやー、店員さんにPreStarの曲を流してくれってお願いしてたら遅くなったよ。
 はい、これお品書き」
「プロデューサー、少しお願いが」
「こらこら。ダメじゃないかそんな喋り方しちゃ」
「え?」

 一体どこに問題があったのだろう。
 普段通りの呼び方で呼んだのに。

「ご、ごめんねお兄ちゃん。この子ったら最近アイドルごっこにハマッちゃってて」

 あ、なるほど。
 今はあくまでプライベートなのだからアイドルを示唆する発言をしてはいけないということなのね。
 でも、咄嗟のアドリブで兄妹に置き換えた春香は見事だと思うけれど『アイドルごっこ』は拙いような。

「ごっこじゃないもん。私だっていつかトップアイドルになってみせるの」
「ははは、お前は歌が上手いからなー。頑張れよー」

 とにかく、私に与えられた配役は末っ子らしいので、それらしくなるように美希の口調を真似てみる。
 するとミーハーな長男の役を演じているであろうプロデューサーが返事を返す。
 軽薄なキャラは柄に合っていないようでぎこちなさが目立つけれど、
 隣室の会話を熱心に盗み聞きする人はそういないだろうし問題はないだろう。

「ところでお願いがあるんだけど。お、お兄ちゃん」

 何なのこれ。思ったより恥ずかしいのだけれど。
 店内の熱気とは関係無しに顔が熱い。
 春香は何故あんなにスラスラと言えたのか疑問に思った。
 プロデューサーに、お兄ちゃんだなんて……!

「ん〜どうした? 何でも言ってみてくれよ。可愛い妹のためなら何でもするぞ」
「えっとね」
 
 とにかく、気を取り直して本題に入ろう。
 私の推測が正しければ、たるき屋自慢のふわふわオムレツを作っている人は。

「厨房で調理してる人の中に同級生がいるかもしれないの。呼んでもらえないかな?」
「おお、分かった。えーっと。ああ、いたいた、あの可愛い女の子ね。すいません小川さーん」
「はーい、少々お待ちくださーい」

 外を窺うプロデューサーに最初から気付いていたようで、間もなく小川さんがやってくる。

「厨房にいるあの子の得意料理を四つお願い出来ますか」
「当店自慢のふわふわオムレツですね。かしこまりました」
「それと」

 そこからは周りの人達に聞こえないよう声を潜めてしゃべり始める。

「出来上がったら作ってくれた子を呼んで欲しいんですよ。
 ここに『prestar』がいることは伏せて」
「あの子はそろそろ上がりなんで、そのまま同席させてあげても問題ないでしょうか?」
「それはこちらとしてもありがたいことです。よろしくお願いします」

 その後はプロデューサーが焼き鳥や『たこわさ』といったものを見繕って注文をしていく。
 よく聞くフレーズである『とりあえずビール』はまだ夕方ということもあって自重したらしい。
 私達からドリンクの注文を聞き入れた後で自分はウーロン茶を注文していた。

「同じ学校の子がいたんだね」
「うん、今まで積極的に話しかけようとは思わなかったけれど」
「そっか。大丈夫、きっと友達になれるよ。
 私も手伝ってあげるから頑張ろうね」
「ありがとう、お姉ちゃん」

 そして、一応初心者ではないらしいプロデューサーを対照的に、置物当然だった私達はこんなことを話していた。
 まだ演技は続いているのか分からない。
 けれど、その時の春香は本当に姉のようで心強かったので自然と口に出していた。




「この枝豆美味しいね」
「仕事で疲れた体には良い塩加減ね」

 そして約10分後。
 あの後すぐに小川さんが持ってきてくれた、「お通し」と呼ばれている枝豆をつまんでいると彼女はやってきた。

「あ、あの〜。高名なグルメ評論家の方がいらっしゃってると伺ったのですが」
「まあまあそんなに恐縮しないで。店長を呼べー! とか怒鳴りたてる人じゃないから」
「は、はい」

 小川さん、あなたは一体どう言って誤魔化したのですか。
 名指しで呼び出される事態なんて普通じゃ有りえないことなのは分かっているけれど。

「注文に預かっておりましたオムレツ四つとたこわさ、そしてこちらがドリンクになっております」
「どうも、話は聞いてると思うけどとりあえずこっちの席に座ってもらえないかな」
「かしこまりました」

 彼女の意思を確認するとプロデューサーが座敷の外へ一度出る。
 彼の隣で私の向かい合わせの席に誘導するためだ。
 いよいよ対面することになるのね。
 そう思ったらここに来て顔を上げられなくなってしまう。
 水瀬さんと全く同じに聞こえる小川さんの例だってあるし、同じように間違えることだって考えられる。
 調理実習で一緒の班になっただけの無愛想な同級生なんて覚えていられないかもしれない。
 今更そんなことを考えても仕方ないのだけれど、考え始めると思考が止らなくなってしまった。

「あれ、もしかして如月さん?」

 けれど、そんな心配は杞憂であったと一瞬にして思い知らされることになる。

「私のことを知ってるの?」
「知ってるも何も、如月さんは有名人じゃないですか」
「あ、そうではなくて」
「大丈夫、同級生だってこともちゃんと覚えてますよ。
 あの時は片付け手伝ってくれてありがとうございました」

 覚えて、もらえていた。
 そのことが単純に嬉しくて。少し恥ずかしくて。
 
「こちらこそありがとう。あの時のオムレツも美味しかったわ」

 気が付くと彼女の顔を見据えて、けれど目線だけは少し外して話をしていた。

「高名なグルメ評論家のお墨付きを頂いちゃったね〜。良かったね〜」
「こら春香っ」
「ひゃふ!?」

 隣から茶々を入れてきた春香の横腹を突っつき抗議をする。
 思いのほか効いたようで彼女は素っ頓狂な声を上げた。
 自業自得よ。

「わわっ、天海春香さんじゃないですかっ。
 うわー目の前にpresterがいるなんて夢みたい」
「っと、一応お忍びで来てるからその名前はあんまり口にしないでもらえるかな」
「あ、はい。ごめんなさい」

 そこまで不自由した覚えはないけれど、普通の女の子では全く知りえない世界なので深刻に考えてしまうらしい。
 アイドルって大変なんですねと少し落ち込んでしまう。

「今日は君のお友達として訪ねたんだからそのつもりでお願い出来るかな」

 そんな彼女を見かねたのか最初から言うつもりだったのか、プロデューサーがそうフォローしてくれた。
 それが私に対してのものなのか彼女に対してのものなのかは分からないけれど。
 彼の言葉は私達の気負いを振り払うには十分な効果を持っていた。

「は、はいっ。如月さん、私あの頃からまた腕を上げたんだよ」
「すごいじゃない。あの頃から十分上手だったのにまだ上があるものなのね」
「当たり前だよー。料理修行に終わりなんてないんだから。その辺は歌への姿勢と同じかな」
「それもそうね、それと呼び方は千早で良いわよ」
「そっか。それじゃあ、わたしも美心で」

 そして一度踏ん切りがつくと順調にキャッチボールが繰り返されていく。
 いずれ学校で名前を聞いてみようと思っていたけれど意外な場所で実現してしまった。
 でも慣れて居ないながらも相手の考え方が少しずつ分かっていくことが楽しい。

「千早ちゃん美心さん、お話中のところなんだけどちょっと良いかな」
「あ、はい」

 一通り自己紹介を終えたところで春香が静止のポーズを取って会話に入ってくる。
 先にあれのこと言っておこうと思って、ごめんね。
 と私に断りを入れてから話を続ける。

「頂きますをする前にフルーツの盛り合わせのことでありがとうって言いたくて」
「あ、はい。このたびは事務所移転おめでとうございました。
 私と小川さんでメロン入りで量も多いセットにしたんですけどお口に合いましたでしょうか」
「とっても美味しかったよー。って、メロン?
 千早ちゃん、あのジュースにメロンって入ってたっけ」
「私の記憶にはなかったように思うけれど」

 思わぬ品目の登場に春香が首をかしげこめかみに人差し指を当てる独特のポーズをする。
 私達が事務所で頂いたのはフルーツジュースで。
 フルーツジュースの一般的な材料はバナナやオレンジなどでメロンが入ることは滅多になくて。
 よって、私達はメロンを頂いたことにはならない。
 ではメロンの行方は?

「ああ、メロンなら俺と社長達で食べちゃったよ」

 その答えを持っていたのはすぐそばにいる人物だった。

「あー! そういえば朝のミーティングでは流しちゃっってましたけど『確かに美味しかったですもんね』って言ってましたよね。
 あれってメロンのことだったんですか」
「ああ、その代わり俺たちはフルーツオレにはありつけていないし問題は無いと思うけれど」
「何言ってるんですか! 果汁100%と果実100%では全然意味が違いますよ!?
 しかもよりにもよってメロンだなんて……!」

 こうなったら春香はもう止められない。
 向かい合わせで座っているプロデューサーに向けて次から次へとフルーツの美味しさについて語り始めた。
 これにはさすがのプロデューサーもタジタジで防戦一方だ。

「天海さんってカッコいいアイドルだなって思ってたんだけどこんな一面もあるんだね」
「春香の良さはスクリーンの中でだけのものでは無いから」
「そっかー。アイドルも普通の女の子と変わらないんだね」
「メロンが食べられなくて怒ったりすることもあるのよ」
「あはは、じゃあアイドルも恋したりするのかなぁ」

 何気なく投げかけられた質問に言葉が詰まる。
 今までそういった事は全然考えてこなかったから分からない。

「多分、する人もいると思う」

 運命の人を探すためアイドルになった人だっている。
 だから恋愛をするアイドルもいるだろうという推測で答えを返す。
 美心が望む答えと少し違っていたのか浮かない顔だったけれど。

「千早はまだそういう人に出会えてないんだ」
「それさえも分からないからこういう答えになったの。ごめんなさい」
「あ、別に謝らなくても良いよ」
「春香から色々な話を聞いてる時に頭を浮かんでくる人はいるのだけれど」
「それは……」

 美心は隣で一方的な口論を繰り広げている春香とプロデューサーに一瞥をくれた後、何故かため息をついてしまった。

「どうしたの?」
「いや、千早も大変だなぁと思って」
「普段の春香は礼儀正しいし、プロデューサーはいつも私達を大切にしてくれる人だから大丈夫よ」
「そ、そう。まあ、千早にも分かる日がその内来ると思うよ」
「そうだと良いのだけれど」
「ささっ、いい加減オムレツ冷めちゃうから食べちゃって」

 美心が思い出したように目の前に置かれたオムレツを指差して食事を勧めてくる。
 何かをはぐらかされたような気がしたけれど、彼女は自分で気付けと言いたいのだと思う。

「そうね、それじゃあいただき―――」
「あーっと待ったー!」

 だからこれ以上聞くことも無いと、オムレツを割ろうと箸を伸ばしたところでプロデューサーに止められた。
 春香との口げんかについてだけどどうやら口げんかの決着はついたようだ。
「スイーツ、フォレストっ」などと口ずさんで上機嫌なことから春香の大勝だったみたいだ。

「折角なんだからみんなでいただきますをしよう。
 こうして折角兄妹が集まったんだからなっ」
「まだそれやってたんですか」

 春香に突っ込まれてもプロデューサーは『当然だ』と少し偉そうに答えてみせる。
 一緒にいただきますを言うのはいつぶりのことだろう。いつ頃からの願望だっただろう。
 さり気ないところにも気付いてくれるプロデューサーの優しさが温かい。

「千早ちゃん、音頭をおねがい」
「分かったわ。それでは皆さん、手を合わせて」
『手を合わせて』
「いただきます」
『いただきまーす!』

 私の音頭に合わせて食材への感謝の言葉を述べ、私達は料理を口に運び始める。

「これおいしいよ美心ちゃん!」
「本当に美味いなこれ」
「ありがとうございます、千早はどう?」
「うん、美味しい」

 そして何より、こうしてみんなで食べる食事は少し冷めかけていてもとても温かかった。


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