葉っぱの間から差し込んでくる日差しは、体をポカポカと暖かくしてくれてとっても気持ちいい。
それでちょっと暑いかなと思ったら、風が涼しくしてくれてこれもまたとっても気持ちいい。
元気いっぱいに生い茂っている新緑の下は最高の環境だと思う。
「ふわぁ、むにゅぅ……。
あ、お、おはようございます!?」
うとうとお昼寝をしちゃうには。
待ち合わせより1時間も早く着いちゃって時間をつぶそうと思った矢先に、公園を見つけちゃったのがいけなかった。
カバンに雑誌とか文庫本とか入っていたし、落ち着いて読書でも出来ると思っていたんだけど。
どうやらおだやかな春の誘惑に負けてしまっちゃったみたい。
枕にされていた芸能情報誌が、読んだ覚えの無いページまで進んでいることでそれを必死に主張している。
「えーと。と、とにかくついうとうとしちゃうくらい穏やかな季節になったってことだよねっ」
指を組んで上に伸ばし、んーっと大きくのびをしながら誰に言っているのか分からない釈明をする。
その時目に入った腕時計は私に止めを刺すのに十分な、友人との約束の時間を示していた。
「うわっ、いつの間にこんな時間。このままじゃ遅刻しちゃうって!」
散らかっていた雑誌などを慌てて片付けて、寝起きで重くなった体を一人で起き上がらせようとする。
ん? 一人で?
その言葉にちょっとした違和感を感じた私は思いを巡らせてみる。
そりゃあこの場には私しかいないんだから一人で起き上がるのは当然なんだけど。
でも、こんな時隣にいて手を差し伸べてくれる人がいたような。
いや、いたんだ。
「プロデューサーさん、待っていてくださいよ」
役職名は分からないけど私との立場は変わってしまった彼。
私にとって替えが利かないとっても大事で大切で大好きな人。
「私、絶対一人前になりますから」
ずっと近くにいたかったけど、私はまだか弱い女の子だから寄りかかることしか出来なくて彼に負担ばかり掛けてきた。
だからずっと一緒にいるために、私は一人でもこの世界で生きていける力を身につけないといけない。
木々の間を通り抜ける春風がプロデューサーさんに頼りきりだった自分を思い出させて奮起させる。
あんな不甲斐無い所を見せないためにも行動を開始するんだ。
春 〜spring〜
今春から765プロダクションにアイドル候補生として迎えられた私は、幸運にもすぐにデビューすることが出来た。
私のことを選んでくれたプロデューサーさんのおかげで。
それだけでも感謝の気持ちでいっぱいなんだけど、プロデューサーさんの指示はいつも的確で何度も助けられていた。
私と同じ新人さんなのにここまで出来るなんて本当にすごいなって思う。
「それじゃあ今日のレッスンはこれまで」
「今日はもうあがりですか? 早いですね」
「次のスケジュールはちゃんと組んであるから。それじゃあ着替えてきてもらえるかな」
「はーい」
そんなプロデューサーさんのことだから、今日も何か考えがあっての午前切り上げなんだと思ってはいた。
「さて、それじゃあ行こうか」
「それで、今からどこへ行くんですか?」
着替えてレッスンスタジオを出ると、プロデューサーさんは事務所とは逆の道を選んで一直線に歩き始めた。
これから営業にでも行くのかな?
でも朝のミーティングでは具体的なことは何も聞かされなかったから考えつかない。
「あ、そういえばお楽しみがあるって言ってましたよね」
「うん。午後からは公園へ行ってみようと思うんだ」
「外でダンスレッスンですか? 広いから大きな動きが出来ますし気分転換にはなると思いますけど」
「いや、レッスンじゃなくて昼寝なんだ」
「ひ、昼寝ぇ?」
思わずプロデューサーさんの言葉に耳を疑ってしまう。
こんな真昼間からいきなり昼寝だなんて。
いや昼にやるから昼寝であってるんだけど。
ってそんなことはどうでも良くて!
仕事もせずに公園でグッスリだなんて、もしかしなくてもサボり!?
そんなぁ、彼はレッスンの指導がいつも真面目で的確で凄い人だって思ってたのに。
いや、そうじゃなくて本当は私の実力を見限って見捨てようとしてるとか!?
うう、そんなこと考えてたら何か落ち込んできた……
「はぁ、私が情けないからプロデューサーさんもやる気無くしちゃったんですね」
「ちょ、ちょっと待って。そんなことだけは絶対ないから」
「ホントですかぁ?」
「来たら分かることだと思うから俺の事を信じて欲しい」
プロデューサーの目は私の目を捕らえて話さない。
確かに本気っぽいことは分かるんだけどやっぱり心配かも。
「は、はあ。プロデューサーさんがそこまで言うんでしたら」
でも、今までもずっと真面目にプロデュースしてくれてたんだから大丈夫だよね。
自分を納得させてプロデューサーさんの後を付いていく。
「今日は随分と暖かいよな」
「そうですねー。今朝は布団かぶってたら暑くなっちゃっていつもより早く目覚めちゃいましたよ」
公園へ向かう道中はこんな風に雑談をしながら二人で歩いた。
うーん、ぞんざいに扱われている気はしないんだけどやっぱり心配だなぁ。
そんなことを考えているうちにいつの間にか目的地についていた。
そこはお昼時なら周辺にある会社のOLさん達がランチタイムをしてそうな大きな公園だけど、昼の1時を過ぎていたので人の気配はほとんどない。
アイドルになる前なら午後の授業を受けている時間だからちょっと新鮮な気分。
「ここだよ。っと」
目的地らしい大きな木の下にたどり着くと、プロデューサーさんは早速木陰に座り込んで足を投げ出す。
あまりにもすごくリラックスした様子に、やっぱりサボりなんじゃないかなと再び不安な気持ちになる。
「とりあえず春香もその辺に寝転がってみような。絶対気持ち良いから」
「もう一度確認させてもらいますけど、これがここに来た目的なんですよね」
「そうだ」
「そうですか、それじゃあお邪魔します」
改めて確認してもプロデューサーさんは私が聞きたいことは伝えてくれない。
こうなったらとにかくやってみない事には始まらない。
そう思いプロデューサーさんの指示通り仰向けに横たわる。
「どう? 春香は何か思うところは?」
「こんな調子でボーっとしてて良いのかなって思いますね」
私は何かしなくちゃって気持ちでソワソワしちゃう気持ちでいっぱいだった。
そのせいか、ふくらはぎが芝生にチクリと刺さる感じに少し不快な気持ちさえ感じる。
ダメダメ、プロデューサーさんはそんなこと思わせたくてここに来たわけじゃないのに。
だからって一体どうすれば?
「あー、言いたい事は分かるけどもっと別のことを考えてみてくれないか。
例えば偉大なる大自然の営みとか」
「大自然の営みって何を」
大げさな、とプロデューサーの表現に突っ込みを入れようとしたところで言葉が止まる。
あ、何か聞こえた……
私は続きの言葉を引っ込める代わりに耳を澄まし『大自然の営み』に耳を傾ける。
「心地よい風の音」
「さっと耳元を通り抜けていく感覚が気持ち良いんだよな」
「その風に揺らされて擦れあう葉っぱの音」
「まるで合奏してるみたいだと思うんだ」
「その葉っぱから漏れてくる暖かな日差し」
「ついつい眠くなっちゃう、っとこれは無し」
感じるまま思いつつまま口にしていく言葉をプロデューサーさんが拾っていってくれる。
春はこんなにも優しくて暖かいものがたくさんあるんだって伝えてくれるように。
一つずつ太ももの辺りに感じていた違和感まで心地よいものに思えてきた。
同じものを見ているつもりでも、私とプロデューサーさんでは見ている世界が違っていたんだ。
ていうかこれって歌手である私の方が気付いておかないとダメなところじゃない!?
うう、今まで春は桜が綺麗くらいにしか思っていなかったんだから恥ずかしいよー。
「な、大自然の営みは偉大だろ?」
「そうですね。私今までそんなこと考えた事もなくて、とにかく頑張ろうとしか頭にありませんでした。
ごめんなさい、見当違いなことばかり考えてて」
私のやることはいつも空回りばかり。
本当に、こんな調子でトップアイドルになれるのかな。
不安な気持ちでいっぱいになり、その表情を隠すために頭に右腕を乗せる。
「謝る必要なんてないよ。
即興でやれって言われたのにちゃんと理解出来たんだから」
そんな私の様子から何かを察したのかは分からないけど、プロデューサーさんはこんな言葉をかけてくれた。
何だろうこの気持ち。すっごく嬉しい。
お父さんや学校の先生にもいっぱい褒めてもらったけど、そのどれとも違う。
無条件に褒めるんじゃなくて、本当の私を見て公正に評価してくれてる感じ。
ああ、そっか。これが認めてもらえるってことなんだ。
気が付くと涙が溢れそうになっていたので、空を見上げているプロデューサーさんに顔を見られないよう体を横へ傾ける。
「それに春香が空回りだったと思ってる歌詞レッスンだって、ちゃんと理解力と感性は磨かれたはずだしね」
「この歌詞ってこういう状況を言うのかな、ってそんな程度の理解力だったんですけど」
「それそれ、そういうのが欲しかったんだよ。気付かせるまでも無かったじゃないか。
なんか余計なことしちゃったかなー」
そんなこと無い。
気負いを取り除いて自信を付けてくれたのに謝るなんておかしいですよ。
だけど、こういう風に言ってくれるところもプロデューサーさんの人柄なのかな。
それとも、これは学校の先生達と一緒で無条件に褒めてくれているのかな。
プロデューサーさんがどう思ってるのかもっと知りたい。
そして、もっと私のことも知って欲しい
あ、あれ? 何で私こんなこと考えて……
「さて、それじゃあ休憩は中断して事務所でデビュー曲の調整に入ろうか」
「ふ、ふぇ?」
そこまで考えたところで思考は遮られる。
ずっと空を見つめながらしゃべっていたプロデューサーさんはいつの間にか立ち上がっている。
ここへ来た時のおだやかな佇まいはどこにも無く、仕事中のキリっとしたプロデューサーさんに戻っていた。
「正直なところ、こんなにも早く打ち合わせが出来るとは思ってなかった。やっぱり春香を選んでよかったよ」
「あ、はい。私頑張ります!」
急な切り替えに対応出来ず情けない声を出してしまった私にプロデューサーさんが手を差し伸べてくれたので、それに掴まり起き上がる。
手の色が変わるほど強くは無いけどしっかりと握ってくれるプロデューサーさんの手は、春の日差しに負けないほどあったかい。
この優しさはみんなに対しても同じなのかな。
それとも、私にだけ特別に優しくしてくれているのかな。
あわわ、それは思い上がりも良いところだよー。
でも、もしそうだったら嬉しいな。
「これから一も緒に頑張っていこうな。目指すは」
「トップアイドルー!」
とにかく、この人なら私をどこまでも高いところへ連れて行ってくれることは間違いない。
さっきまで疑心暗鬼だったことなんか忘れて、すっかり信頼してしまっていた。
この時芽生えた仄かな想いも織り交ぜて。
その気持ちが恋だって気が付くのに時間は掛からなかった。
だけど。
プロデューサーさんの思っていることは私とは違っていることには全然気付いてはいなかった。
◇
1年間。
私が所属する765プロダクションにおいて、それが重要な数字であることはデビュー当時から知っていた。
季節が一巡りするごとに迎えられる、アイドルとプロデューサーがお互いのこれからを決めるために設けられた節目。
全てを包み込むような優しい季節にデビューを迎えた私も例外ではなく、その現実は平等に訪れる。
同期の中には海外デビューを目指す子もいたりしたけど、基本的には引退もしくは活動休止を選ぶアイドルが多い。
私もその通例に則って、自分を見つめなおすために活動休止をするつもりだった。
今日もそのためのお別れライブに向けて、ラストライブの会場を飾るポスターの撮影だ。
「春香ちゃん、そこだとちょっと眩しくないかな? なんならもっと花が満開の木に場所を移すけど」
「いえ、ここが良いです。
いつ撮られても良い様に準備はしておきますから、花の間から日差しが顔へ照り付けてるタイミングでお願い出来ますか」
「オッケー、良いショットが取れるように期待しといてくれよ」
それだけ告げ、日差しの眩しさを手で覆うようなポーズで待機する。
カメラマンさんの注文は、視線は斜め上の太陽へ向け物思いにふけっている感じの横顔。
眩しさなんて無視できちゃうくらい、感情的に感傷的に……
「そうそう、ちょっと切ない感じがとっても良いよー」
あの時手を取ってくれたプロデューサーさんの担当アイドルとしてはもうすぐお別れ。
それを思い出したら演技するまでも無くその後の撮影は滞りなく進んでいった。
「お疲れ様」
何事も無く写真撮影が終わり、衣装を着替え終えてロケバスに戻るとプロデューサーさんが出迎えてくれた。
ドアを引いて車内へ促してくれるので、素直に従って乗り込む。
デビュー当時の私は『そこまで気を遣ってくれなくても良いですよー!』なんて恐縮しちゃって、挙句の果てにはわざわざ閉め直して自分で開けてから車内に入っていたっけ。
あの頃の私は男の人からのそういう心配りに全然慣れていないにもほどがあった。
それが今では、転びやすい私のことを考慮して後ろから手を添えてくれていることに気付く余裕も出ている。
私はプロデューサーさんのことが大好きだから何でも分かることなんですけどね。
「今日もリテイクなしの完璧な仕事だったよ」
「いい加減ドジっ子の汚名は返上しましたから」
それは立派になったもんだと言いながら、髪をわしゃわしゃとさせながら少し強引に撫でてくれる。
上から押さえつけられるのはちょっと痛いけれど、それに勝る心地よさがあるので止めようとはしない。
「もーそんなに強くされて縮んじゃったらどうするんですかー」
「それはそれで可愛いじゃないか」
「もー子供扱いしないでくださいー」
私がプロデューサーさんとなりたい関係はこんなものじゃないのに。
『だったら私を女性として見てくれってハッキリ言いなさい』
頭の中でそんな声が聞こえたけど聞こえなかったことにする。
そんなこと、言うまでも無いんだから。
「あの」
「どうした?」
「い、いえ。なんでも無いです」
「そうか、それなら良いんだけど」
だから思わせぶりな態度を見せて待ちの姿勢。
プロデューサーさんの方から歩み寄ってくれるはずだから大丈夫、きっと。
「どうした春香? 体調が悪いとか何かあるならちゃんと言ってくれよ」
「いえ、本当になんでもないですから」
「本当に?」
「だから本当ですってばー」
ほら、こんなにも心配してくれてる。
だから私の思いはきっと伝わっているはずだ。
私がこのままアイドルを辞めてしまっても、プロデューサーさんとはずっと一緒にいたいって。
だけど、その日以降もプロデューサーさんからは何のアクションも全く無いままで。
私はとうとうラストライブの時を迎えてしまった。
「みんなありがとー!」
「春香ちゃーん、今までありがとー!」
「いつまでも応援してるからねー!」
ラストライブをアンコールまでやり終えて、ファンの最後の声援を背に会場を去っていく。
二人で一緒に頑張ってきた、アイドル「天海春香」としての一年は最高の形で締めくくることが出来た。
そして、いよいよやってきたプロデューサーさんとのお別れ。
そこで私は、ある決心を伝える覚悟を決めていた。
「大盛況だったな」
「そうですね」
ライブ会場を後にして、デビュー当時に連れて行ってもらった公園を当ても無く二人で歩く。
初めて来た時は春の日差しが眩しい暖かい場所だったけど、今は夜ということもあって静まり返っていて少し涼しい。
月明かりがうっすらと照らす新緑は名前通りの緑色には見えず、私には枯れてしまっているように見える。
私がアイドルとして一つの終わりを迎えた心情を反映しているのかな。
まあ、もう少ししたら明るさを取り戻すんだから今は気にしないけどね。
「アイドルランクを上げてどんどん成長していく春香にいつも驚かされていたんだけど、今日の春香も今までの中で最高だったよ」
「ありがとうございます。応援してくれた人達のおかげでここまで来れました」
プロデューサーさんの指導やファンの声援。
どちらが欠けていてもここまでやって来れなかったから、感謝の気持ちに順位は付けられない。
「春香のファンは本当に幸せ者だな。ファン第一号である俺も含めて」
「プロデューサーさんはファンとしての大事な人じゃありませんよ?」
好きかそうじゃないかとは話が別になってくるけど。
この一年間でプロデューサーさんは私にとってかけがえの無い人になった。
私は、プロデューサーさんのことだ好きだ。これからも一緒にいて欲しい。
「そうだな。俺は春香にとって『プロデューサーさん』だもんな」
「そ、そうですね」
だけど、私の想いに反して未だにプロデューサーさんの心の内は分からない。
他のことなら何でも分かる自信があるのに。
その『プロデューサーさん』には一体どういう意味が込められているは全然分からない。
今も公園の夜道は足元が見づらくて危ぶないからって手を引いてくれていることだって分かっているのに。
「あの、プロデューサーさん」
「ん、なんだ?」
こうなったら私から想いを伝えるしかない。
それでプロデューサーさんの気持ちを教えてもらって、今までのように安心させてもらうんだ。
「もし私達の関係がプロデューサーとアイドルじゃなくなってもそばに置いてくれませんか」
「え、それってどういう」
「好きです、これからもずっと一緒にいて下さい」
言っちゃった……
それまで吹いていた春風が急に止まったような気がした。
辺りは一瞬にして静まり返っていき、代わりに私の鼓動はどんどん大きくなっていく。
あとはもう返事を待つだけ。
「そう、だったのか」
プロデューサーさんは私の告白で完全に固まってしまい、足を止めて言葉を無くしてしまう。
あ、あれ? 私ってそんなに意外なこと言ったっけ。
や、やだな。何だかまた鼓動まで早くなって背筋がゾクゾクするような冷たい汗まで出てきちゃったよ。
何でそんなに驚いているんですかプロデューサーさん。
すぐ『俺も同じ気持ちだったよ』なんて返事が返って来て、今日これから始まる私達の伝説が。
冷え切った空気が一気に華やいで温かい春の情景が広がっていくはずなんだから。
「残念だけど、そのお願いは受け入れられない」
「な、何て言ったんですか? あっはは、もしかして四六時中付き纏いますって聞こえちゃいましたか?
やだなぁプロデューサーさんさすがにそんなこと」
「俺は春香とそういう特別な関係にはなれない」
広がっていく、はずなのに。
プロデューサーさんの答えは季節を逆行させて冬の寒さを連想させるような、これまでの一年間を無かったことにするような拒絶の言葉だった。
そんなのって無いよ。そんな答え、悲しすぎるよ。
「どうしてダメなんですか? 私ってやっぱりダメな子でしたか?」
「違うよ、春香はちょっとおっちょこちょいだけど可愛くてとても魅力的な女の子だよ」
「だったらなんで」
「春香にはアイドルとしてもっと頑張ってもらいたいんだ。
だから俺とそういう関係になって人気に影を落とすようなことになってほしくない」
「言いたいことは分かります。分かりますけどそれなら私引退したって」
みっともないって分かってるけどプロデューサーさんの言葉に食い下がる。
後になって考えると、こういう所が子供だと思われていたんだろうな。
感情に任せて突っ走ることしか出来なかったわけだけど。
それを分かっているのか、プロデューサーさんあくまで冷静に大人の理論で説き伏せてくる。
「そんな理由で引退するって言うんなら、俺は春香のことを絶対に好きになんかならないからな」
「あ……」
プロデューサーさんの言葉はここで締めくくられる。
最後は感情に任せた言葉だったけどどの言葉よりも重かった。
やっぱり、私は大事に思われていたんだ。
厳しいアイドル業界に生きている、か弱い女の子として。
先生が生徒を見守るような慈愛に満ち溢れた心で接していたんだ。
一人の女性であるだとか彼女がどうだとか全く考えてなかったんだね。
私は一番肝心なことを知らなかったんだ。
あはは、私ってまだまだ子供だなぁ。
でも、まだ期待されてる。これからも成長するんだって。
だったら―――
「ご、ごめんなさい。私、間違ってました」
「分かってくれるなら良いんだ。きつい言い方して済まなかったな」
「つまり、私がアイドルとプロデューサーさんの彼氏を両立出来るような強い女性になれば良いんですよよね」
「……へ?」
プロデューサーさんが心配しなくても良い様な、立派で魅力的な大人になれば良い。
風評とか世間の目が気にならなくなるくらい魅力と、何があっても人気の揺るがない実力を身に付ければ良いんだ。
「強くなるって、そういう問題じゃないんだよ。
そもそも俺へ抱いてる感情は年上への憧れを勘違いしてるだけだから」
「そんなこと言って誤魔化そうとしてもそうは行きませんよ。
プロデューサーさんは私の人生において掛け替えの無い存在になっている事実は変わらないですから」
「春香……そこまで言うなら分かったよ。
君が誰から見て大人になった時と思える時にまだ俺の事が好きでいるならちゃんと考えてみるよ」
「それは心配無用です。考える暇もなく飛び込みたくなるような女になってみせますから」
「そ、それは困るな」
プロデューサーさんの苦笑する顔が外灯の光で薄らと浮かび上がる。
これをこの一年間で見てきた優しい顔にする。
いや、愛しい人を見るような男の顔にするのが私の目標。
「というわけで。折角活動休止をしたわけですし、女を磨くための修行をするのでしばしのお別れです」
「そ、そうか。体調には気をつけて無茶しないようにな」
「無茶だってくらい頑張ってビックリするくらいの歌とかダンスとか女の魅力とか磨きを掛けますから!
それじゃあ、また!」
私は笑えていたかな。
プロデューサーさんには私の笑っている顔を覚えて欲しいから。
やっぱり涙で視界はぼやけているけどきっと大丈夫だよね。
こうしてアイドル・天海春香は世間が春であるにも関わらず、更に成長するための寒い寒い冬眠期間に入った。
◇
「それで、呼び出しておきながら居眠りしちゃっていた春香が私に何の用事があるかしら」
「だ、だからごめんって〜」
「まあ、別に気にしていないけれど」
で、翌日に千早ちゃんを呼び出したのはいいんだけどラストライブでの疲れのせいか公園でお昼寝しちゃって今に至ります。
私達が現役時代に使っていた隠れ家的カフェにやってきて早々叱られることになってしまいました。
あ、冬眠って決してこれのことじゃないからね!?
むしろこの場合は『春眠暁を覚えず』であって。
……続き忘れちゃったけど。
そ、それにしても千早ちゃんの言葉は相変わらずきっついなぁ。
「その割にはちょっと言葉がきつくないかな」
「ちょっとした仕返しよ」
ふふっと言った感じで笑られる。
この辺の茶目っけはあの頃から随分と変わった気がするかな。
元来の真面目さのせいで冗談か本気なのか分からなくて怖いけど……
「そ、それでさ。昨夜に電話で頼んでたことなんだけど」
「ここに来る前に先方から了承をもらってきたから問題はないわよ。でも、本当にやるつもりなの?」
「うん」
「こう言っては悪いけれど、一度引退したアイドルの再復帰なんて誰も見向きなんてしないわよ」
「やっぱり、普通はそう思うよね」
仮にもアイドル業界を一番下から頂上まで登りつめた私には身に染みて実感している。
ファンのみんなはニューフェイスの初々しさや、現役で人気を維持し続けているトップアイドルのオーラに夢中だから。
だから一度活動休止をしたアイドルの人気はどんどん下火になって、大体はそのまま引退に向かうことが多い。
それが業界に生きる者としての常識だ。
「私も春香と同じように業界の色々な一面をを見てきたからね。
例えば、そういうアイドルが過去の栄光にしがみ付こうしてどんな結末を迎えたかとか」
世間に見向きもされなくなって切羽詰った彼女達の末路は耳を塞ぎたくなるような悲しい結果が多い。
幸いなことに身近な子の中では聞いたことがないけど、私も大丈夫なんて保障はない。
相変わらず言葉遣いは厳しいけど、私にはそうなって欲しく無いと心配してくれていることは顔を見れば分かる。
「ありがとう、心配してくれて」
「アイドル業界にしがみ付きたい一心での行動だったら昨日の電話を切って終わりだったのだけれどね。
まったく、私も厄介な片棒を担がされたものだわ」
右手に額を乗せて首を横に振るポーズを取り、やれやれと言った感じで答えられる。
こんなリアクション、去年までは絶対取らなかった。
歌のために全てを捧げてしまってお人形さんみたいな印象を持っていたのに随分と人間っぽくなった。
「それでも千早ちゃんは一緒に担いでくれるんだよね」
「まあ、春香は友達だからね」
「ありがとう千早ちゃん、綺麗だよ」
「なっ、何を言い出すのよいきなり」
それが、本当に慈愛に満ち溢れた大人っぽい表情をするようになったなぁ。
彼女にとっても『プロデューサーさん』と過ごした一年は人生にとって掛け替えのないものになっているんだね。
そんな人とこれからずっと一緒にいられて、海外デビューと言う夢に向かってまさに羽ばたこうとしている。
これが、気持ちが通じ合った二人に訪れた幸せな未来。
それを目の前で見せ付けられて、さらに私の背中を押す。
「あはは。とにかく、私は立ち止まらないよ」
だから、私はどこまで突き進んでいける。
想いが届くまでにどれだけ時間が掛かっても。
想いが届くまでにどれだけ障害が立ち塞がっても。
彼と一緒に、同じ幸せを分かち合うために。
「確かに学校の授業は大切だしお菓子を作るのは楽しい。
だから普通の女の子に戻ったって悪くはないと思うよ。
だけどね。私は歌が好き、
そして、そんな私の歌が好きだって認めてくれたあの人の事が大好きなんだ」
上達する度に喜びをかみ締めることが出来た。
たくさんのファンが元気になってくれたことが嬉しかった。
そして、大好きな彼に最高だって言って貰えることが何よりの幸せだった。
だから、この気持ちは揺るがない。
「私もプロデューサーとどこまでも羽ばたいて行きたいと思っているから春香の気持ちはよく分かるわ」
「もうすぐ海外デビューのために二人で一緒に移住するんだよね。おめでとう千早ちゃん」
「ありがとう。だけど、春香が往く道は私以上に辛いものになるかもしれないわよ」
「言ってしまえばファンの皆への裏切りに見える行為だもんね。敵がいっぱい出来たっておかしくない。
でも、どれだけ長い時間を掛けても成し遂げて見せるから海外から見守っててね」
「そう、だったら私から言う事はないわ」
いつの間にか飲み干していたミルクティーのお代を置いて彼女が立ち上がる。
私はそれを自分の手元に寄せて見送る準備をする。
一緒に店を出るつもりが無いそんな対応が、これから私が歩む道を示しているような気がするから。
「そうそう、ダメだと思ったらいつでも連絡してね。
どんな手を使ってでも安らかな引退を迎えさせてあげるから」
「多分、余計な心配になると思うけど心遣いありがとう」
本当に、ありがとう。
心の中でそう言って千早ちゃんを見送る。
その言葉には『この程度の敵意は跳ね返せるくらい強くなりなさい』って思いが篭っていることが分かっていたから。
「よし、私も早速先生の所に行ってみますか」
会話に集中していたせいですっかり冷めてしまっていたレモンティーを一気に飲み干しレジに向かう。
この甘酸っぱさを甘くて幸せな味に変えるための特訓の始まりだ。
◇
「再デビューの件ですが、結論から言うと来年までみっちりトレーニングし直してもらうことになりますね」
「やっぱりそれくらい掛かりますか」
「今の実力からを維持しつつ折を見て再デビューという手段も無くはないですが、それでは先が見えていますから」
彼女から紹介してもらった先生は本当に容赦が無くて、その分だけ本気で私の復帰プランを考えてくれた。
かつての人気アイドルが圧倒的な実力を身に付けて再デビュー!
この煽り文句を使って大々的に宣伝して売り出していくのが最善の手段であるというのが先生の意見。
そのために基礎体力や各種イメージの底上げに必要な期間を丁寧に説明してくれた。
それは他には無いと思えるくらい綿密に練られていて、復帰をするには十分なプランだと思った。
「先生、この倍の練習プランでお願いします」
でも、その程度じゃまだ足りない。
先生が進めてくれたのは完全な復帰に必要なプランであって、私がやろうとしていることに対しては少し足りない。
何より、『次に会うときはもっと歌が上手くなっていますから』って約束したしね。
「本気ですか? これでも十分厳しいプランだと思いますよ」
「私が目指している所はもっと高いところにあるので」
「そうですか。それなら私も手加減はしませんよ」
「よろしくお願いします!」
よーし、見違えるくらい綺麗になって戻ってくるから待っててくださいよー。
こうして、私にとって苦難の1年が始まった。
「ほら、今ワンテンポ遅れましたよ!」
「はい! ごめんなさい!」
「謝ってる暇あったら次!」
「はい!」
「そこのステップがそうじゃない!」
「はい!」
怒られてばかりのスパルタレッスンでしたけどそれも頑張りましたよ。
先生の言うとおりかつてトップアイドルだった頃の実力の維持は簡単だったけど、更に進歩させるのが本当に大変だった。
現役時代に何度か立ち塞がった壁は今ほど高いとは思わなかったし、一緒になって乗り越えてくれる人もいた。
それを、今はたった一人で乗り越えないといけない。
停滞を続ける自分の実力に苛立ちを覚えた。
そんな自分を導いてくれるプロデューサーさんが近くにいないことが寂しかった。
だけど、それを乗り越えることで強くなれる。
そう信じて日々の鍛錬に取り組んだ。
「ありがとうございましたぁ〜」
「お疲れ様です。それじゃあ早くここを出なさい。
あんまり遅いと補導されてしまいますよ」
「は、はひぃ……」
私ほど日本のサラリーマンさんの苦労が分かる女子高生はいない自信がある。
だって8:30から学校に通って15:30に下校して2時間掛けてレッスンスタジオに行って20:00まで練習してそこからまた2時間掛けて家に帰るんだよ?
それに土日出勤有りだし……
労働基準法オーバーも良いところだよ。
まあ、サラリーマンさんと比べて朝の通勤ラッシュが無いから楽と言えば楽だけどね。
車内で学校の教科書とかアイドル業界の雑誌とか自己啓発本とかを読み漁る余裕はあるのはとても大きい。
それにしても、アイドル活動に必要な知識って本当多いなぁ。
彼は毎日仕事をしながら知識を吸収して、更にそれを私に分かりやすく伝えてくれていたんだよね。
私が追いつけなかったのも納得がいっちゃうな。
でも、彼がどれだけすごい人だったかちゃんと理解した今だったら追いつける。
だからこの一年は1秒でも無駄にしないように色々なものを取り入れて行こう。
そう心掛けながら独りぼっちの一年を過ごした。
◇
そして季節は巡り再び春。
雪がゆっくり溶け出すようにして目の前を覆っていた壁が消え。
自信が無くて冷たくなっていた心は一気に温かくなって。
私は飛躍的な実力の進化と、女性としての自信を身に付けて自分でも想像出来なかったほどの変貌を遂げた。
「先生、今までお世話になりました」
「こちらこそありがとうございました。あなたを指導できたことは私にとっても貴重な経験でした」
そして今日は最後のレッスン日。
練習を少し早めに切り上げ軽く挨拶を交わし、帰る仕度をしスタジオに戻る。
先生はスタジオの真ん中に立ち、これといった事を考えてない様子で時計を見上げている。
物思いに耽っているのかな。
吊られるように私もスタジオの中を見渡してみる。
先生が檄を飛ばすために肌身離さず持ち歩いていた、今は壁に立てかけられている竹刀。
私はこの程度じゃないと言い聞かせるように、常にもう一人の私を映してきた大きな鏡。
改めて1年間通い詰めたスタジオを見渡してみると色々なことを思い出してちょっと寂しい。
「今日でここともお別れかぁ」
「春は別れの季節と言いますが、出会いの季節でもあります。
私が如月千早と別れてあなたと出会った様に、あなたも私と別れて誰かと出会いに行くのですから」
時計を見上げたままだった先生がこちらへ向き直って言ってくる。
それが優しく諭されるような口調だったので少し言葉に詰まる。
でも、今まで厳しい一面しか見せてこなかった先生の言葉で色々と吹っ切れた。
そうだ、私はまた彼に会いに行くんだ。
「それは分かっていますよ。先生に後ろ髪を引っ張られない内にさっさと出て行こうと思います」
「ふふ、貴方の方こそ二度とここには戻ってこないようにお願いしますよ」
「任せて下さい。ここを紹介してくれた千早ちゃんを追い抜かすくらいになって証明してみせますから」
「期待しています」
「先生、いままでありがとうございました」
その言葉を最後に私はレッスンルームを後にする。
2年前のプロデューサーさんとの出会いは、ただただ温かさに満ち溢れていた。
去年迎えた彼との別れは、その温かさに甘えきった結果が招いたものだった。
去年迎えた先生との出会いは、甘えていた自分を変えようと思っての行動がもたらした結果だった。
そして、今年の先生との別れ。
今までの経験を通じて何をするべきかを考え、それを実践できるだけの成長を遂げることで訪れた清清しい別れ。
全部が私にとって、大切な思い出。
「そっか、春ってこういう季節だったんだ」
色々な決断を迫られて、それがもたらす結果も一気にやってくるある意味一番残酷な季節。
でも、その先にある未来を掴むためにはどれも必要なことだったんだ。
今なら本当の意味で好きになれるかもしれない。
だって、色んな人との思い出が溢れてきてこんなにも幸せな気分なんだから。
さあ、ここからもう一度スタートするんだ。
風評とか余計なことを気にしなくて良いくらい、大きくなった私を見てもらうために。
そして、あの時言えなかった言葉を伝えて『天海春香』をどう思っているかちゃんと答えを出してもらうんだ。
それが全てを懸けて挑むべき私の夢、いつか叶う私の夢。
決意を新たにして迎えた三度目の春は、風によって宙を舞う桜のように華やかな色で満ち溢れる未来が待っているような気がした。