武月ヶ丘の女神様 第三号


 部活動の朝練に打ち込む生徒達から放たれる数々の音が、色々な所から聞こえてくる。
 学園の名前を大声で叫ぶ掛け声だったり、吹奏楽部が奏でる楽器の音だったり。
 夏休みも近づき強さを増してきた日差しに負けない力強さが感じられる青春の音色。
 自分を高めるため、チームに貢献するためと、それらの音は活気に満ち溢れている。
 そんな朝の学園を隠れ蓑にして、屋上へ忍び込む生徒達が2名いた。

「ご苦労様。協力してくれて助かったよ」
「本当に自分が荷担したことがバレない配慮はしてくれたんですよね?」
「配慮も何も、まさか君が関わっていたなんて思う人はいないって」

 上を見上げて返事をする男子生徒が一人。
 下を見下ろし言葉を返す男子生徒が一人。
 一人は人当たりの良さそうな外見で、それ相応の中身を持った1年生の男子生徒。
 そしてもう一人は自信と遊び心に満ち溢れている3年生、皆川巧だった。
 彼は何かと目立つ存在だと自覚しているのか、普段と違う行動を取ったら怪しまれると思ったのだろう。
 たとえば、大きな段ボールを抱えて屋上へ向かっていくこととか。
 そのため自分はあらかじめ屋上に向かっておき、時間差で彼を屋上へ向かわせたのだ。

「とにかく、君のことがバレないためにも早く作業を済ませた方が良いと思うけど?」
「た、確かにそうですね」

 焦ったように男子生徒は両手で抱えていた段ボールを片手に持ち直し梯子を上ってくる。
 人の良さそうに見える外見ではあるが、体格は柔道部員らしく大柄で屈強だ。
 包容力と力強さを併せ持つ彼なら彼女の一人や二人いても良いはずだろうに、ここの女子は見る目が無いな。
 巧は彼とその周辺を取り巻く環境をそのように評した。
 彼女候補を5人も抱えていながら生殺し状態を続けている彼に言われる筋は無いが、本人は気付いていないらしいので言わせておいてやるとしよう。
 そんな朴念仁から散々憐みを受けてしまった男子生徒は、一般生徒なら到底出来ない芸当を見事にやってのけて配送を完了した。

「やっぱすごいな。さすが柔道部期待の星」
「それほどでもないですよ。それより、本当にここに隠しておいて大丈夫なんですか」
「今日は見ての通り快晴でクソ暑いし誰も屋上なんて来ないって」

 たった一人をのぞいて。
 それは彼らのいる給水塔がある一角に陣取って数字合わせに熱中する三年生であるが、今日はその姿はない。
 最近の彼女は一人でいるより年下の同級生との会話の方が楽しいはずだ。
 よって、週に一度の『ナンプレの日』以外は教室でおしゃべりに興じていることが多い。

「というわけだから、始業時間5分前までここに隠れておいてから行動に移してくれ」
「分かりました。もう大丈夫ですので二人ともご苦労様でした」

 作業が完了した所でさらにもう一人の生徒が梯子を上ってやって来る。
 彼は新聞部の部長で、最近学園を騒がしている事件の実行犯だ。

「そんじゃ言葉に甘えて無関係者は退散するとしますか」
「え? 皆川先輩は無関係なんですか?」
「そういうことにしといた方が生徒会を本気にさせないで済むって話なのさ」
「はぁ」

 新聞部長の説明に対して柔道部期待の星は太い首をかしげる。
 確かにこの騒動において、皆川巧の影は見当たらないように見える。
 彼自身も巧本人から声を掛けられるまで真相は知らなかった。
 だが、彼の存在が割れると生徒会が本気になる理由は想像が付かない。
 彼は学園内の相関関係に疎い真面目な部活少年だった。
 それも巧から選ばれることになったポイントなのだろう。
 もっとも、巧が彼の人となりを知ったのは新聞部の聞き込みによる成果だが。
 厄介な連中が手を組んだものである。

「そんじゃ頑張れよー」
「あ、が、頑張ってください」
「任せなさい。二人の細工は流々、あとは仕上げをとくと御覧じろ。と言ったところだね」
「ははは、ジャーナリストらしい回りくどい言葉だな」

 さり気なく『二人』と言われて実行犯の仲間入りをさせられた柔道部期待の星だが、彼の心は少しだけ昂ぶっていた。
 ここにまた一人、台風に巻き込まれてしまった生徒が増えてしまった。

 ◇

「見た見た? 今週の新聞」
「あれはヤバイよー。本当だったら怖いよー」
「でもかなりマジっぽい話だよね、それらしい噂が昔あったらしいしさー」
「誰が書いてるんだろうねー。匿名記者って言ってたけど」
「まさかその記者の正体が幽霊だったりして……」
「ちょっとそういうこと言うの止めてよー!」

 昼休みの教室は学級新聞の記事によって浮き足立っていた。
 これまでデタラメ記事を拝む機会が無かった進学校の生徒にとって最初は無視出来るネタだった。
 だが、生徒会役員が直々に検閲を向かった事実から野次馬根性が刺激された所から火種はくすぶり始めた。
 始めは小火でしか無かったそれは、定期的に発行される記事が徐々に現実味を増していくことに比例して大きくなった。
 臨時記事第4号が発行された夏休み間近になってくると、季節の風物詩とも言える「学校の怪談」の仲間入りを果たしていた。
 具体的な生徒の反応と言えば、怖いだの、真相究明をやれだの、美人で可愛い巫女さんにお祓いさせろだの。
 それでも、この状況に乗せられずいつも通りの生活を送っている優等生もいるわけなのであるが。
 学園祭実行委員会副会長である大澤柚もその一人であった。

「ねえ、大澤さんは怖くない?」
「え? え、えっと〜。う、うん。ちょっと怖い、かな」

 自分でも気付いてるが、わたしは食パンを食べていると夢中になって会話が頭に入らなくなる。
 同級生の友人は彼女の昼食を邪魔しない気を遣い、無事食べ終わった頃を見計らって話題を振ってきたようだった。
 そのため咄嗟に取り繕うべき言葉が思いつかず、しどろもどろな返答になってしまった。

「あれ? そんなに怖そうじゃないね」
「えと、ちょっと怖がり過ぎて疲れたちゃったっていうか」
「そっかー。大澤さん怖いの苦手だもんね〜」

 彼女は同級生の友達と話を合わせるように、怖がっていない自分を隠すための言葉を使う。
 普通なら自分を弱く見せるための嘘は付きたくないし、実際に付かないものだ。
 それでも彼女は怖がりながらも盛り上がってる同級生に水を差さないことを優先する。
 協調性が高く他人を重んずる柚らしい一面であった。

「だからそういう話に入るのだけでもちょっと辛くて、ごめんね」
「いいよいいよー。怖がってる人に無理やり話を聞かせるなんてひどいことは出来ないしね」

 本当に怖がっているのは自分ではなく彼女達ではないかと、言葉と態度が反対であることがおかしい。
 心の中ではそう思いながらも表に出すことは無く、柚は別の会話をしている女子グループの中に入ることにした。

「くっそー新聞部のやつー。またしてやられたわー」
「これで3回目だっけ? あいつらに記事の掲載を許したの」
「今回は屋上からばらまかれたんだったっけ?」

 と言っても、記事からその編集者へシフトしただけのようだが。

「あ、柚じゃない。どうしたの?」

 会話に入ろうと3人の輪に近づくと、向こうから先に声を掛けられた。
 
「奈都希ちゃんごめん、生徒会の話してるんだけど話に入れて欲しいな。
 記事の内容で盛り上がられると行く場所なくて」
「確かに大澤さんには辛い話題だよねぇ」
「合宿でわたしが怖い話をしたら奈都希と二人で抱き合ってたくらいだもんねー」
「あ、あたしは別に怖かったわけじゃないわよ」
「あはは……」

 顔を真っ赤にして否定する奈都希と、乾いた笑い声で穏やかに肯定する柚が対照的だ。
 それでも奈都希とは合宿という名の旅行などで親密になった友人なので、お互い名前で呼びあうようになった。
 神楽達には未だに『さん』付けが取れないのが柚にとって気がかりではあるが。
 
「それにしても、毎回後手後手に回ってるよね」
「う、話題に入っていきなりそれ言われるときつい」
「あ、ごめんね奈都希ちゃん」

 率直な感想を述べただけの柚の一言は予想以上に奈都希に応えたらしい。
 そのまま何も言わないと奈都希は自分で傷口を広げてしまうタイプなので、すぐさま謝罪の言葉を述べた。

「普段は優しいのにたまにそういうの出るよねー。その辺めぐるとそっくり」
「ちょっと神楽ちゃん。いっつもそうやって腹黒キャラ認定しないでよ〜。ねぇ大澤さん」
「そ、そうですよー」
「分かった分かった、大澤さんも計算し尽されためぐるのキャラとは一緒にされたくないよね」
「だーかーらー!」

 計算じゃないということは天然で腹黒いと? それはそれで嫌だ。
 柚はそう思ったのだが、否定の言葉を述べる前に彼女達の舌戦がヒートアップしてしまって口を挟む余地が無くなった。

「ごめんね柚。でも、グリグラがあんなこと言うのは友達だって認めてる証拠だから」
「うん、分かってる」

 自分や奈都希もそうだけど、神楽達も案外不器用なのだ。
 腹黒の定義について本気で語り始めた友人をしばらく見つめた後で、柚は奈都希に答えた。

「そういって貰えるとあたしとしても嬉しいよ」

 本当に嬉しそうに答える奈都希を見て柚も気分が良くなる。
 友達を認めて貰えることは自分も認めて貰えることより嬉しい。
 それは奈都希と柚にとって共通の価値観だった。
 もっとも、柚にとって一番の親友は彼女が心配をする必要がないくらい多くの人から信頼を集めているのだが。

「ところでさ、グリグラがあんな感じだから柚に聞いてもらおうって思うんだけど」
「うん、新聞部のことだよね?」

 親友兼側近であるグリグラと話すだけでは足りないらしい。
 対応に困っているらしい生徒会長は一介の副委員長に過ぎない生徒にも相談を持ちかけてきた。
 柚の返答が相談に乗ってくれるものだと解釈した奈都希は、察しが良くて助かるわと言うとさらに言葉を続ける。

「生徒会長としてはを騒ぎ立てて混乱を誘うゲリラ配布みたいなのを止めて欲しいと思うのよ」
「それなら検閲をしないようにすれば良いだけなんじゃ」
「う、確かにそれはそうなんだけど」

 あ、またやっちゃったかも。
 奈都希が気まずそうに目線を逸らしながら答えた。
 また言ってしまったと柚は反省したが、奈都希はそれを察知したのかすぐに目線を戻してきた。
 友達が心配しないように元気に暴走出来るのは彼女の強みなんだろうなと、内気な自分を恥じている柚には眩しい視線だった。

「それでもここまで騒ぎになってしまった以上は止めないわけにはいかないのよね」
「確かに、どんどん大きくなっているもんね」

 最初は一文化部が起こした小さないざこざから全校を巻き込む大騒動へ。
 まるで熱帯付近で発生した低気圧が北上するにつれ成長していくように。
 
「あの妙な記事さえ取り下げてくれれば検閲解放しても良いんだけど」
「それじゃあ例の『匿名記者』さんを捕まえちゃえば良いんじゃないかな」

 簡単に捕まれば苦労しないのだろうけどと、柚は心の内でだけ思った。
 自分を折角頼りにしてくれたのに、これ以上やる気を下げるようなことを言ってはいけないし。

「そうねー、それが一番手っ取り早いんだろうけど。それが出来たら苦労しないわ」

 そんな彼女の思いを知ってか知らずか奈都希は柚の心の中を言い当てるような発言をした。 
 柚は驚くと同時に奈都希も自分と同様に『匿名記者』にアタリが付いているような気がした。

「あいつったら正攻法の通じない賢しい奴だしさー。
 あたし達が部室前で張ってると知ってからはメールで原稿を送ってるらしいのよね。
 まったく、相変わらず小細工が好きなんだから」

 何故なら、彼女の発言は『彼』に対して挑戦的な口調で。
『彼』のことを誰よりも理解しているような自信に溢れていたから。

「だったらこっちは小細工抜きの力技で行けば良いんじゃないかな」
「例えばどんな?」
「怪しい生徒を問い詰めて家の中まで調べさせてもらうとか」

 その自信がちょっと悔しくて、柚は奈都希が使いたがらない前会長の方針に則った提案をしてみる。
『彼』に狙いを絞って捜査をすることから始める。
 それは多分、答えに繋がっているはずだ。
 この学園で起きた事件において、ほぼ全てに『彼』が関わっていたのだから。
 でも、きっと奈都希は最初から『彼』に狙いを付けたりはしない。

「そんなのフェアじゃないわ。あいつを捕まえる時はしっかり証拠を集めて目の前に突きつけてやるんだから」

 彼女は犯人が決まっているイージーモードで『あいつ』と戦いたくないと思っているに違いないから。

「疑われて家宅捜索された人も災難だしね。
 やっぱり記事になってる当時の情報を集めてる人を地道に探していくしかないかなぁ」
「当時の、情報ね。
 ……一体誰が集めているのかしらねー」
「うーん、誰なんだろうねー」

 知ってるくせに。
 奈都希の言動は嘘をごまかしていることが丸見えだ。
 手に入れた情報源がフェアでは無かったと判断したのか、奈都希の中では無かったことにされているのだろう。
 ……神楽さん達も大変だなぁ。
 しらばっくれてわざわざ遠回りするのに付き合ってあげているであろう二人の心情を察してあまりある。

「ま、悩んでいても仕方ないわね。
 図書室とか資料室辺りで情報を集めてみることにするわ」
「頑張ってね、奈都希ちゃん」
「ありがとう柚。さあグリグラ、図書室で聞き込みを開始するわよ!」

 結局まともにアドバイスも出来ないまま奈都希は自分の眷属を連れて何処かに行ってしまった。
 どんなことでも真正面から正々堂々、か。
 わたしも彼女を見習ってもっと自分も思い切った行動に出るべきなんだろうか。
 奈都希の実直さは羨ましいけど、遠慮がちで他人を優先する自分の姿勢も間違っていないはず。
 それらの気持ちが頭の中でごちゃ混ぜになって、柚は頭を悩ませた。

 ◇

「私、ゆかりに遠慮するのはもう止めようと思うの」

 ジャズの流れる落ち着いたカフェに呼び出され、開口一番に放たれた言葉がこれだった。
 しかし、彼女の言葉が何を指して言っているのか全く分からない。
 顔も笑ってないし視線はゆかりを捕まえて離さないし冗談を言ってるわけではないのは分かるのだが。

「遠慮も何も、昔から涼は容赦無いじゃない」

 ネタがあればすぐからかうし揚げ足取りも大好きだし。
 ……なんで友達になれたんだろう。
 ゆかりは今更のことながらそう思ったが今はその話は置いておこう。

「そうよ、本来の私は容赦がないはずなのよ」
「だったら今更弁解の必要なんか」
「巧のこと以外ではね」

 その先の言葉が出なかった。
 それは再び友達として接するようになってからずっと気にしてきた。
 だけど切り出すのが怖くてずっと気にしないことにしてきた。
 言ってしまったらまた友達でいられなくなると思ったから。

「とにかく座りなよ」

 涼に促されたので首だけ縦に動かしてから向かいの席に着く。
 彼女の向こう側から見える席では大学生風のカップルが話をしている。
 でも、彼らが何を話しているか考える余裕などゆかりには全くなかった。

「ブラックでとびっきり熱いのを頼んでおいたけど良いよね」
「え、うん」

 ちょっと待ってどうすれば良いか分からない。
 店に入ってからずっと涼のペースで話を進められて黙って従うことしか出来ない。
 今日はあたしが大学のことを話して涼が学園のことを話してファッションとか音楽とかの話をして楽しい一日になるはずだったのに。
 自分の中にある日常が一気に崩れ落ちていく感覚にゆかりは戸惑いを隠せないでいた。

「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます」

 連れであるゆかりが来るのを見計らっていたのだろう。
 店員が狙い済ましたタイミングで2人分のコーヒーカップを運んできてくれた。

「ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます」

 店員がカップをゆかり達の正面へ来るようにカップを置き、一礼をして席を離れていく。
 カップから沸き立つ湯気は中身が本当に熱いことを誇示していて、本格焙煎豆の香りは本当に苦そうで少し息苦しい。
 涼は一体どういうつもりでこんな無茶苦茶なオーダーをしたのだろう。

「じゃあ先にちょっと頂いちゃおうか。気分も落ち着くだろうし」
「そ、そうね」

 気分を落ち着けるため?
 それならビターコーヒーよりキャラメルマキアートみたいに甘い方が良い様な気がするけど。
 内心疑問に思いながらゆかりはコーヒーを口に運ぶ。

「あ、あつ、あつつっ」

 コーヒーは予想通り熱くてゆかりは思わず声を出してしまうが涼は全く無反応。
 無言で一口すすった後、静かにカップをソーサーに戻した。
 ちょっとコレ涼のだけ温いんじゃないの!?
 とは思ったが確かに気持ちを落ち着ける事は出来た、というか醒めた。
 なるほど、涼はこれを飲んで臨戦態勢に入れと言いたかったわけね。

「それで、本日は同盟破棄の申し入れということで良いのかしら?」
「ふふ、やっとその気になってくれたわね」

 挑戦的な笑みを浮かべる涼に対し、それに応えてゆかりも口上を述べる。
 そこには先ほどまで慌てていた少女の影は無い。
 かつて武月学園に規律の守護神として君臨していた前生徒会長の守永ゆかりがいた。

「良かったら理由を聞かせてもらえるかしら」
「利害が一致しなくなった。というより元から利害なんて無かったことに気付いたからよ」
「確かに涼にとっての利益なんてたかが知れていたわね」
「そうなのよねー。思えば意味の無い交渉だったわ」

 ゆかりが流せる情報はほとんどが過去の巧だったのに対して、涼が流す情報はゆかりが卒業した後の学園での巧だった。
 情報は水物とはよく言ったもので新しいほど意味がある情報だ。
 そのため、彼に関しての情報は等価交換がまるで成り立ってはいなかった。
 それでも二人が手を組んでいたのは理由がある。

「また一人で立ち向かうつもりなの?」

 一人で戦うのが怖かったから。
 臆病だと罵られても構わない。
 恋愛に奥手だったあたし達にとって、敵となる難攻不落の鈍感男は荷が勝っていた。
 それは涼にとっても同じだったはずだ。
 しかし、涼から返ってきたのは大きなため息だった。

「私がいつまでも一人ぼっちの薄幸美少女のままだと思わないでもらえないかしら」

 涼は怒っていた。
 あの事件が起きる前、意見が食い違う度に互いの思いをぶつけ合ったあの頃のように。
 場所を考慮して声のトーンが低くなっているが、それが逆に凄みを与えてゆかりの言葉を詰まらせる。
 
「今は大澤さん達とだって仲良くやってるし、他にも友達って呼べる人は結構いるんだよ。
 この話を切り出すきっかけを与えてくれた子だってその中の二人だし。
 屋上で一人ナンプレを解いてる毎日からは卒業したの」
「でもあたしは心配で」
「そういうのもう良いんだって。私に遠慮する必要なんてもう無いの」

 そうだった。涼はこんな子だった。
 頭の回転が早くて友達思いで頑固ってくらい意志が強くて。
 そして、自分の不始末は自分でケリを付ける子だった。

「ゆかりがいつまでもそんなままだったら、昔みたいにケンカ出来ないじゃない」
「涼……」

 認めたくないのか拭うことはしないが涼の目尻から一筋の涙が流れる。
 彼女は、言葉で怒って心で泣いていた。
 あたしの独善的な思いはここまでゆかりを苦しめていたんだ。
 心配して『あげる』なんて考えは自分が上位だと思い込んでいるようなものだ。
 涼とは対等な付き合いがしたかったはずなのに。
 今更だけど間違っていた。
 そしてそれに気付いたならやることは一つだ。

「分かった、押し付けがましい優しさはもうやめる」
「本当に言ってる? もう心配したりしない?」
「心配はするわよ、友達だもん。
 でも、あたしが何でもかんでも解決してあげようなんて図々しいことは考えないようにする」
「そっかぁ、なら許す」

 その言葉を最後に二人の間にしばしの沈黙が流れる。
 ゆかりは涼の瞳から流れるものが止まるまで、ただ目線だけを逸らす。
 彼女にとって不本意な出来事のはずなので手を貸すことはしない。
 それは誓いを早速裏切ることになると思ったから。

「さて、それじゃ残りのコーヒー飲んじゃおっか。いい加減冷めてるだろうし」
「そのためにわざわざあっつ〜いの頼んだから大丈夫。舌がヒリヒリしたけど」
「あ、やっぱり我慢してたんだ」

 店で出迎えた時の冷静さは緊張を隠すための演技だったのだろう。
 泣き止んでからの涼は普段どおりの明るさを取り戻していた。

「ネットで調べた『カッコいい挑戦状の叩き付け方』を応用したんだけどなぁ」
「またそんな怪しげな情報鵜呑みにしちゃって」

 バッチリ嵌められていた自分が言えることでは無いけど、とりあえず突っ込みを入れておく。

「アナログ人間にはネットのすごさが分からないですよーだ。
 見てなさい、私がネットで調べた『処女でも大丈夫! エロカッコいい男の陥し方』で巧をメロメロにしちゃうんだから」
「またそんな怪しげな情報に頼っちゃって。信用出来ないに決まってるじゃない」
「いやいや、並行世界の私では絶対これで巧の筆下ろしに成功してるはずよ」
「並行世界って何それ。
 それに恋愛ってものはじっくりと関係を深めていくことでお互いの心が一つになっていくことが大事なのよ」
「メルヘン回路通電中ね、そういうのをネットでは」
「ちょっと待ったその先は言わせないわよ」
「むっ、さすがにそう甘くはないか」
「それ上手いこと言ったつもり?」
「なによ、ネットの情報量は偉大なんだからね」
「じっくり吟味せずに妄信するのがいけないって言ってるでしょ」

 静かで大人の雰囲気のカフェで何を私達は言っているんだろう。
 ゆかりは周りが見えていなかったが、周りの視線が自分達に集中しだした事で初めて思い直した。
 しかも処女とか筆下ろしとか!
 商談をしてる方だっているかもしれないのに本当に申し訳ない。
 あ、ゆかりの向かいのテーブルに座ってる男の人と目が合った。
 うわーはずかしー!

「ねえゆかり、私達ちょっと場違いよね」
「やっと気付いたのね発情美女」
「誰のことを言っているの。とにかく早く出てしまいましょう」
「そうね、じゃあ」

『すいませーん、ミルクとお砂糖くださーい』

 やっぱり二人は甘かった。
 でも、二人の砂糖を入れる量が違うように考え方も色々ある。
 これからは寄りかかるだけでなく時には対決もしていくことになるだろう。
 こうして、約4年を掛けた痴話げんかはようやく完全な和解を迎えた。





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