おはようと卵料理と焼きもちと


「起きて来たか里伽子。おはよう」
「おはよー、仁。ん〜、今日も気持ち良い朝ね」
「ふぁあ〜……眠い」

 あたしが朝起きて一番初めにしたのは毎朝の日課である挨拶を交わすことだった。
 寝起きのあたしは伸びをしながら、寝起きじゃない仁はあくびをしながら。

「こら、あたしより先に起きてたのに寝ぼけたようなあくびをするな」
「そんなこと言われても、出てくるものは出てくるんだから仕方ないって」

 気だるそうにくだらない話をする様子は、一般家庭では本当に何でもない出来事。
 だけど、あたしは幸せをかみ締めながらありふれた日常を満喫している。
 だって、こんな風に仁と“何気ない朝のやりとり”が出来る日が来るなんて思ってもいなかったから。

「その調子じゃ、あんたもさっき起きて来たばかりなんでしょ?」
「まあ、確かに起きたのはつい30分くらい前のことだけど」
「だったら朝食もまだ作れてないだろうしあたしが……って、あら?」

 すでにテーブルの上にはフォークとセットのサラダ。
 ティーポットとセットで買った空のティーカップ。
 そしてまだ何も乗っていない空の皿が、それぞれ二つづつ置かれてあった。
 どうやらあたしは、かなりの寝坊をしてしまったらしい。

「あ、ちょっと待ってろ。今からフレンチトーストを作るから」
「まだ出来てないものがあるんだったら何か手伝うけど」
「良いって良いって。どうせすぐに出来上がるから。
 それよりも今のうちにそのだらしない顔を洗って美人の里伽子に戻ってきてくれよ」
「……うん、じゃあお言葉に甘えまして」

 そう言うとそれぞれ仁はキッチンで調理を始め、あたしは洗面所で顔を洗う。
 本当は手伝えることがあったら手伝いたいのだけど、今まで同じことを言って実際に手伝わせてくれた試しがない。
 ……足手まといになるつもりは無いのだけどな。

「さ〜て、今日はバニラエッセンスでも入れてみるか」
「いや、ここはシナモンの方が良いか?」
「う〜ん、どっちも捨てがたいな。どうするべきか……」

 あたしが洗面所へ行こうとキッチンを横切ると、仁がブツブツ独り言をつぶやいていた。
 彼は卵が関係する料理に関しては、他人の介入を全く許さない。
 それは前から分かってはいたことなのだけど、二人で暮らすようになってから改めて実感したことだった。
『だから俺は里伽子に手伝いをさせないんだ、分かったな?』
 一度だけなかなか引き下がらず交渉した時があったけど、この一言で沈黙して以来はすぐに引き下がるようにしている。
 ほんと、あたしを気遣ってくれてることが見え見えだっての。

「よし、ここはバニラエッセンスで行くか」

 こうなると口を挟むことは邪魔でしかない。
 だからあたしは、仁に言われた通りだらしなく寝ぼけた顔を引き締めることにする。
 4月に入りようやく暖かくなってきたけど、それでも明け方の水は顔を引き締めるにはちょうど良い冷たさだった。

「戻ってきたか。こっちもちょうど出来上がったところだ」
「お疲れ様」

 顔を洗った後、寝癖を直す程度で軽く身だしなみを整えてからリビングに戻ってくる。
 すると、すでにテーブルの上ではフレンチトーストが香ばしい匂いと湯気を立てていた。
 さすが飲食店で軽食担当をしているだけあって、焼け加減もほんのりとキツネ色をした美味しそうな色に仕上がっている。

「う〜ん。寝起きでだらしない里伽子も良いけど、やっぱり顔を洗ってシャキッとした里伽子の方が綺麗で良いなぁ」
「う〜ん。ファミーユで食べる仁の料理も良いけど、やっぱりこの家で食べる仁の料理の方が美味しそうで良いなぁ」
「真似すんなよぉ」

 などとフレンチトーストへの感想を思っている横から、相変わらずのベタ褒め口撃が飛んできた。
 当然のようにあたしは反撃を試みる。

「そっちこそ、歯の浮くような台詞は止めなさいよ」

 だって、恥かしくてたまらないから。
 主に寝起きを見られたことへの羞恥心と、綺麗だと褒められることへのむずがゆさで。

「そうかそうか、もっと言って欲しいか」
「さあ、どうでしょうね?」

 昔から感情を表面に出さないために憎まれ口を叩いていたけど、最近になって仁はそのことに気が付いたらしい。
 曖昧な返事で誤魔化そうとするあたしを見ながら、仁はとっても嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。
 ……ちょっと悔しい。

「そんなことはどうでも良いから、冷めないうちに朝御飯を食べちゃいましょうよ」

 本当はただ恥かしいから話題を逸らしたいだけなのだけど、とにかく仁の興味を料理の方へと逸らすことにする。

「そうだな、冷めちまったら里伽子が起きるのを待ってた意味が無いし」
 
 さきほどまでのにやけ顔はどこへやら。
 柔らかい笑顔を浮かべながら仁は言う。
 料理なんて一斉にやってしまった方が絶対に楽に決まっていて、別々に料理するなんてただの面倒でしかない。
 仁はそれを面倒だという素振りを見せることなく、あたしが起きて来るのを待っていた。

「里伽子には、なるべく美味い俺の料理を食べてもらいたいに決まってるし」

 さらに続けて仁は言う。
 彼の言葉には、昔は感じることが出来なかった深い愛情が表れていた。
 本当に大事にされているのだと感動がこぼれてくる。
 同時に―――

「恵麻さん、ずるい」

 今まで愛情を独り占めしていた女性へのヤキモチを妬きたい感情も現れた。

「なんでここで姉さんが出てくる」
「さて、なぜかしら?」

 ……こんな愛情を、今まであの人は一人で受け取っていたのよね。
 いや、あの人への愛情表現に比べたらあたしに対してのものはまだまだだ及ばない。
 こいつの家族偏重愛主義は底が知れないんだから。
 羨ましいのと同時に、ちょっと嫉妬しちゃいたい気分。

「どした里伽子? フレンチトーストよりも姉さんのところで作ってたオムレツの方が良かったか?」

 などと恵麻さんに対してよく無い事を思ってしまった自分に反省しているところに、仁があたしの顔を覗き込んできていた。
 さすがに起きてから20分では髭まで剃る時間が無かったのだろう。
 その顔には薄っすらと髭が生えていて少しだらしなかったけど、やっぱりカッコよかった。

「あ、ううん。何が出てきても仁が作る“卵”料理は美味しいよ?」

 それに、その視線からはこちらを気遣う温かさに満ちていた。
 仁としてはもっと凝った物を作りたいのだろう。
 元々“卵”料理に関してはかなり口うるさい人間だし。
 それでも毎朝あたしのために、簡単に食べることが出来る簡単な料理を作ってくれている。
 やっぱり深い。あたしには勿体無いくらいに。

「“卵”を強調するなって。それじゃあまるで俺が卵をかき混ぜながらニヤニヤしてる変なヤツみたいだろ」
「してないの?」
「……可能性が無いとは言い切れない」

 近所でケーキが美味しいと噂されていたファミーユ本店の全貌。
 それは卵をかき混ぜながら恍惚の表情を浮かべている男と、正確で膨大な仕事量をベルトコンベアの様にこなしながらも本気で楽しんでいるパティシエだった。
 その事を初めて知った時は、さすがにちょっと引いた。
 それも今となっては楽しい思い出の一つなのだけどね。

「だからあんたは何も気にしなくて良いから、ひたすら卵料理ばっかり作っていれば良いのよ」
「すまんな、そう言って貰えるとありがたい」

 だからそこは仁が謝るところじゃないって。
 何度言えば分かるのよ。
 ホントあんたって、呆れるくらいに優しいヤツなんだから。

「さて、話も纏まったことだしそろそろ朝食を食べるとしましょ」
「そうだな」

 仁が手を合わせて、いつもの挨拶を交わそうとする。

「でさ、これ食べ終わったら折角の休みだしデートでもしない?」

 仁にとって大事な儀式を中断してしまうのは悪い気もしたけど、あたしはその言葉を遮ることにした。

「里伽子からの提案ってのも珍しいな」
「まあ、たまにはそういう日もあるでしょ」

 誰にでも優しく、『家族』には特に優しく、自分には厳しい仁。
 だから、彼の優しさに対して自然と恩返しがしたくなる。
 今のあたしに出来るのは、時に非情な選択もする頭脳で貢献すること。
 それと、文字通り体で返してあげることが出来ないのがもどかしいところだけど。

「俺としては大歓迎だから別に良いけどな」
「異論が無いなら決定ってことで良いかしら?」
「オッケー」
「儀式の邪魔して悪かったわね」
「気にするな、父さん達はそんなことで怒りはしないから」

 本当に怒らないんだろうな。仁が大事にする『家族』なんだから。
 残念ながら顔を合わせて話をする機会は無かったけれど。
 あたしが今のようになってしまったことに関係してして、仁と一緒になれたきっかけを作ってくれた人達。
 感謝をしながら手を合わせる。
 徹底的に彼らの教えを守る仁と同じように。

「それじゃあ。父さん、母さん、兄さん、頂きます」
「頂きます」

 そしてあたし達は、手を合わせ挨拶を交わして朝食を食べ始める。
 こうしてまた、平和で穏やかな一日が流れていく。

「あ、最後に行くところはやっぱりラ……」
「はい、今日はウインドウショッピングツアーに決定しました〜」
「男の俺は何を楽しめと!?」
「あたしの笑ってる顔」
「あ、それはいいな」
「そこで頷かれると張り合いが無いんだけど。
 もう少し行間を読み取って欲しいんだけどな」
「……分かった、お前の意思は汲み取った」
「本当に分かってるんだか」

 前言撤回、今日はとても熱い一日になることだろう。 
 それを予感させるかのように、一口かじったフレンチトーストは仁の温かさで溢れていた。



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